ひなまつり 雛祭りなんて、京子にとってはなんの意味も持たない行事だ。 “女児の節句”だの“女の子の祭り”だの言われても、京子にはまるで関係のない話だったから。 三月三日なんて、毎年普通の日だった。 日曜日でも平日でも、何か特別大きな祭りがある訳でもなければ、クリスマスやバレンタインのようにお菓子やケーキが出回る訳でもない。 出回るのは食べれない人形ばっかりで、唯一食べれる雛あられや小さいオカキぐらいじゃ京子の腹は膨れない。 だから、どうして雛人形が飾られるかと言う意味も、京子は知らなかったのだ。 朝起きて、眠気眼を擦りながら、寝室から店舗スペースに向かった。 薄手のシャツとパンツだけと言う格好は、三月になったとは言え冷え込む朝には不向きだ。 いや、それ以前に、京子とて今年で11歳だ。 女の子はそろそろお洒落に目覚めて、人が見ていなくても、見目を気にする年頃だ。 マセた子供なんかは物心ついた時には既にそうで、この服がいい、あの服は嫌と、好みが出ているものである。 けれども京子はそんな事はお構いなしで、寧ろ世間一般の女の子の逆を地で行っている。 膨らみ始めた胸を気にする事が増えたが、それは小さい事を気にするのではなく、動くのに邪魔だと言う事。 彼女の頭の優先順位の一等は、専ら剣術に関してのみであった。 だから、扉を開けた先に広がった光景に、首を傾げてしまったのだ。 「アラ京ちゃん、おはよう」 「……おう」 アンジーの朝の挨拶に、若干心此処にあらずて応える。 広い店内を見渡したところで、別段変わった事がある訳ではない。 クリスマスの時のように部屋中それ一色に飾りつけはされていなかった。 けれども、部屋の真ん中を陣取るテーブルには、その大きさの半分を占める謎の物体が置かれている。 部屋全体の大きさと比べれば小さなものだが、普段其処に何もないだけに、妙に存在感を感じてしまう。 いつも京子が定位置としてそのスペースを使っているのも、その要因の一つだろう。 「兄さん、ありゃあ……」 京子が謎の物体を指差すと、アンジーは嬉しそうに微笑み、 「ほら、今日は雛祭りでしょ。ちゃんとお雛様を飾らないとね」 「おひなさま……ああ、雛人形か…」 平安時代の貴族の格好をした男女の人形が一体ずつ座って。 その後ろには金屏風、左右に小さなぼんぼり、梅の花。 加えて本日、三月三日。 ああそういう日だったかと、京子が今日と言う日の意味を思い出したのは、実に数年ぶりの事だった。 近付いて、京子は男雛の頭を突付いてやる。 人形は凛と其処に佇み、白塗りの顔を穏やかに微笑ませていた。 京子が『女優』に来たのは、二年前の事。 三月三日を迎えたのは二度目で、一度目の時、 雛祭りの話はしたような気はするが、その時もやはり、京子は雛祭りの日だと話を振られるまで思い出さなかった。 その際―――――京子はこの人形を見た覚えがない。 「……去年あったか? こんなモン」 「いいや。ついこの間買ったのさ。京ちゃんの為にね」 「オレぇ?」 何故そこで自分の名前が出て来るのか。 理解できずに、京子は顔を顰めてビッグママへと振り返る。 「毎日怪我して帰って来るから、そういう事が少しでも減ればいいと思ってさ」 「それでなんで雛祭りに人形飾るんだよ?」 「おや、知らないのかい。元々、雛祭りっていうのはそういう為の行事なんだよ」 雛人形は、子供に降りかかる厄や災いを、代わりに引き受けるという役目がある。 その為、小さな子供のいる家では、人形を飾り、子供のその年一年の無病息災を願うのだ。 が、京子にはそういった記憶がまるでない。 あるのかも知れないが、思い出せるほど鮮明な記憶ではない。 辛うじて思い出すことが出来たのは、姉と雛あられを分け合って食べた事くらいだ。 それ以外はいつもと同じで、父に道場で扱かれて、痣だらけになった事だけ。 何も特別な事なんてない、毎年そんな一年だったと思う。 「…こんなモン飾った所で、ヤな事が起きねェ訳じゃねえだろ」 「まぁね。気持ちのモンさ、こういうものは。大人が安心する為のね」 「……兄さん達が安心する為の?」 「そうねェ。京ちゃん、いっつも無茶しちゃうから」 アンジーの大きな手が京子の頭を撫でる。 ふわっと体が宙に浮いた。 持ち上げたのはキャメロンで、がっちりと隆起した肩に乗せられる。 「そうよォ。昨日も一杯怪我して帰ってたじゃないの」 「稽古してたんだから当たり前ェだろ」 「顔にも怪我作っちゃって。京サマももうちょっと考えてくれてもいいのにィ」 「顔は女の命だものねェ」 「オレはンな事どーでもいいけど」 強くなりたいと望んでいる京子には、体の何処に怪我をするかなんて関係ない。 顔だって、凶器が目の前に迫る瞬間を怖くないとは言わないけれど、傷を作るのは構わない。 しかし、女性よりも女性らしい心を持つキャメロンとサユリには、そうも行かないようで。 「ダメよォ! 京ちゃんは可愛いんだから、きちんと大事にしなきゃ!」 「スベスベでモチモチなのよねェ〜。羨ましいわ、アタシ最近、顎とかガサガサしてきちゃって」 「…そりゃヒゲの剃り残しだろ……青ヒゲ出てるぜ、キャメロン兄さん」 「ヤァダ〜!!」 京子に言われて、キャメロンが恥らう乙女のように体をくねらせる。 そんな彼女の肩から、京子はひょいっと飛び降りた。 サユリに背を押されて洗面所に向かうキャメロンを、京子は呆れた表情で見送った。 二人が部屋を後にすると、京子はいつもの定位置に座る。 雛人形が置かれたテーブルの前にある、四人がけ用のソファの上だ。 ふぁあと欠伸を一つ漏らして、京子は何も言わずに鎮座している雛人形を指先で突付く。 「こんなモンが厄除けねー……」 先ず、ろくろく信心と言うものが薄い京子である。 行事に興味もなければ、言い伝えなんてものを信じる気にもならない。 けれども――――隣に座ったアンジーの表情は、何処か楽しそうで。 「厄除けもいいんだけど、アタシはもう一つの言い伝えの方が大事ね」 「…他になんかあんの?」 問いかける京子に、アンジーはクスクスと笑う。 何故笑われるのかが判らずに、京子は眉間に皺を寄せた。 つん、とアンジーの指が京子の眉間の皺を突く。 クセになっちゃうわよ、と言うアンジーに、京子は構うもんかと更に眉間に力を入れてしまう。 「お雛様を早く飾ると、早くお嫁に行けるンですって」 「嫁ェ?」 「あと、早く仕舞うのも同じような意味があるみたいよ」 「なんだそりゃ。どーいう理屈なんだよ」 「理屈や由来はアタシも知らないけど、そういう風に言われてるのよ。だから京ちゃん、早く良い人見付かるといいわね」 眉間に寄せた皺から、頬へ。 アンジーの手が移動して、優しく、まだ丸みを残す京子の頬を撫でる。 「阿呆臭ェ。嫁なんか誰が行くかよ」 「そうだねェ。京ちゃんに相応しい男がいるかどうか、先ず其処から問題だからね」 「そーいう事じゃねェよ、ビッグママ!」 相手がいるかいないかなんて、京子にはまるで興味がない。 自分には関係ない話だと、そうも思っていた。 小学校は随分と長い間通っていないけれど、通っていた頃から京子は周りの女の子の話について行けていなかった。 サッカー部のあの男の子が格好いいとか、ちょっとマセた子とは全く話が合わない。 それより男子と話をして、外でドッジボールでもしている方が楽しかった。 今だって男の子になんか興味がない。 強い相手だったら気になるけれど、それとこれとは全くの別だろう、確実に。 ソファに深く座って、京子は胡坐を掻く。 窄めた視線の先には、やっぱり物言わず微笑む人形が二つ。 「京ちゃんのお婿さんになる人……どんな人なのかしら」 「兄さん、オレの話聞いてるか?」 「そうさねェ、京サマの眼鏡に敵うかってのも気になるね」 「なんで師匠が其処で出て来るんだよ!」 「ヤだわ、ビッグママ。アタシ達だってそうよォ」 「話聞けって!!」 京子の声などそっちのけで、アンジーはビッグママと盛り上がっている。 京子は結局、会話を止めるのを諦めて、溜息を吐いて頬杖をついて、人形を見下ろす。 澄ました顔で鎮座するのがなんだか無性に腹が立って、女雛の人形の頭をデコピンしてやった。 意外に頑丈に作られていたらしい人形は、それでもけろりと其処に佇んでいる。 こうしてアンジー達が盛り上がるのは、自分達の理想を投影している部分もあるからだろう。 本当の意味で“女”になる事が出来ない彼女達は、性格がどうであれ、本物の“女”である京子に、少なからず憧れのようなものを抱いている。 結婚だとか、妊娠だとか――――彼女達が自分の事のように賑やかにするのは、その為だ。 だから京子も、雛祭りだの結婚だの、そういう事には興味がないけれど、下らないと一蹴する事はない。 ……でもやっぱり。 「誰がなるもんかよ……嫁なんか」 ぽつりと呟いた言葉は、その時、確かに彼女の本心で。 覆される日が来るなんて、欠片も考えていなかった。 ==================================== 折角の雛祭りなんで、京子で何か一本書きたかったんですが……カップリングにはなりませんでしたーι にょたでちび京ちゃんを書いたのは、これが初めてなんじゃないのかな? でも、男の子のちび京とあんまり大差ないですね。 この頃の京ちゃんの憧れは、男の子でも女の子でも、父ちゃんと京士浪です。 二人を超えるぐらい格好よく強くならないと、京ちゃんは手に入らないんだぜ!(ハードル高ッ!!) 近頃、ネタ粒に放置するSSも長いのが増えてきたような(滝汗)…… |