何かが変わった、同じ場所 Beginner's love. 前編 真神学園3-Bに、ちょっとした事件が起きた。 校内一の不良生徒であり、“歌舞伎町の用心棒”の異名を持つ蓬莱寺京子と、噂のミステリアスな転校生が、諸々あった末に晴れて恋人同士になったという、そんな事件だ。 クラスメイトの反応は、大きく分けて二つ。 「いつの間にそんな仲になってたの?」という者と、「ああ、どうりで……」という者だ。 両方の感想を抱いた者もいた。 単純に友人であると言うには、あまりに二人の距離は近過ぎた。 しかし、互いが互いを特別扱いしているような節もなく、二人は何処までも自然体だった。 京子が女であるからと、龍麻は京子を女扱いすることなく、京子も龍麻が男であるからと特別何かを意識することはなく。 京子の言動が男のものと見紛うその性格もあってか、まるで同性間の親友のように見えるのが精々だった。 だから“恋仲”という枠に二人の位置関係が収まったと聞いて、クラスメイト達はそれぞれ、驚いたのだ。 異性を意識しあうような間柄でもなかったのに、いつの間にそんな仲になっていたのかと。 そして、あれだけ仲が良いのだから、本人達に意識なくとも、他者にすればそんな風に見える事もあって。 傍から見て、この二人は色恋沙汰とは無縁であった。 それは当人達も自覚していた。 龍麻は、女子とも普通に話をするが、それこそ世間話程度。 聞き役に回っている事が殆どで、自ら話題を発信することは滅多にない。 ふんわりとした笑みを浮かべて、それは男女関わらず向けられるものだった。 京子はといえば、もっと男っ気がない。 彼女の周囲に集まる男は、皆“歌舞伎町の用心棒”に喧嘩を売りに来たか、返り討ちに遭った後に舎弟になった連中だ。 なまじ其処ら辺の輩よりも腕っ節が強いものだから、先ず彼女と恋仲になろうと思う人間の方が少ないだろう。 自分より強くなければ男として認めない―――なんて事を彼女は言わないが、それ位の度胸と資格は必要ではないだろうか。 ホームルーム前の朝の教室で、生徒達は遠目に事件の中心の二人を見遣る。 ちなみに、彼ら彼女らクラスメイトがこの事件を知ったのは、数日前の事。 授業が終了して、自分の席で寝落ちかけていた京子に、「起きないとキスするよ」と龍麻が言った。 昼休憩等で京子が寝入って起きない時、龍麻がこう言って京子を起こすことはままあった。 寝起きに凶悪な顔で「…ふざけてんじゃねえよ」と言って目覚めるのが、常の風景。 その時は珍しく、京子は龍麻の言葉に反応を返さず、数秒後にそのまま寝落ちてしまった。 それから、龍麻は本当に京子の頬にキスをして――――その時、確実に教室内の時間は完全に停止していた。 しばらく時間が停止した教室で、京子が目を覚ましたのは、約三秒後。 ぼんやりと寝ぼけた顔で見上げてくる京子に、龍麻は一つ微笑んで、 『おはよう、京』 ごくごく普通にそう言って、今度は彼女の額にキスをした。 教室の面々と同じく、しばらく停止した後。 我に返った京子は、握った拳で思いっきり龍麻の頭を殴りつけた。 何しやがんだと怒鳴る京子に、龍麻は何処までも平然として、 『だって僕達、付き合ってるんでしょ?』 だからって人前ですんじゃねえよ、と。 怒鳴ってから、京子は自分の発言の意味に気付いた。 ………それが、二人の関係の発覚だった。 教室の窓際の席で過ごす二人は、特に何か変わった様子はない。 美里葵、桜井小蒔、醍醐雄矢、そして隣クラスの遠野杏子。 いつもと同じ面子が揃い、交わされる会話はいつもと同じ、放課後にラーメンを食べに行こうというもので。 だから、誰も判らなかった。 二人がいつから“恋人”になったのか。 日常の中で二人の変化は見られなかったし、そんな素振りも見せた事がない。 龍麻がああしてキスをする瞬間を見るまで、クラスメイト達は誰一人として気付いていなかった。 遠野でさえも気付いていなかったと言うから、きっとごく最近の話なんじゃないか―――とは思うのだが。 真相を知るのは、当人たちばかりであった。 体育の授業前の休憩時間。 隣クラスと合同の授業であった事を利用して、男女別々に分かれ、それぞれの教室で着替える。 ふざけあいながら、それでもさっさと着替えを終えた男子生徒は、次々に教室を出て行く。 例に漏れず、着替えを終えた醍醐も教室を出ようとした、が。 「醍醐君」 呼び止める声に、ドアを開けかけていた手が止まった。 振り返れば、此方も既に着替え終えた龍麻。 醍醐に代わってドアを開けると、龍麻は扉の横の壁に背中を預けた。 隣の教室からはぱらぱらと女子生徒が出て来ているが、其処に見知ったメンバーは見当たらない。 教室の中から遠野の声が聞こえるので、また着替えている真っ最中なのだろう。 龍麻に倣って彼女達を待つ事にして、醍醐は教室のドアを閉めると、龍麻の横に並んで立つ。 「何か用か? 緋勇」 「うん、まぁ」 ちょっと相談、と。 言って、龍麻は一度、隣の教室を見遣る。 「京の事なんだけど」 告げられた名が意外なものだったので、醍醐は一瞬瞠目した。 彼女の事なら、誰よりも龍麻が詳しいだろう。 醍醐の方が幾らか付き合いが長いと言っても、時間とその密度は必ずしも一致する事はない。 もとより誰よりも互いの事を理解し、信頼しあっているような間柄であるのに、今更人に聞くような事があるのだろうか。 第一、京子は容易く他者を自分のテリトリーに入れようとしないので、龍麻以上に彼女について詳しい人物は極僅かだ。 彼女が何かと世話になっている『女優』の人々だとか……それ位ではないだろうか。 ――――と、思ったものだが、見下ろした先の龍麻の表情は、真剣だ。 ……あまり表情筋が動く人物ではないので、恐らく、ではあるが。 「京、変わらないよね」 「まあ、そうだな」 恋人同士であることを公言した今と、出会って間のない頃からの態度。 彼女は何も変わった様子はなく、龍麻と普通に会話をして、普通に日々を過ごしている。 醍醐は、龍麻から何度か相談されたことがある。 「京のこと、好きみたい」と。 しかし醍醐が知っているのはそれ限りで、二人が付き合う切欠になるような事には心当たりがない。 龍麻は他の誰にも話していなかったようだし、京子はそれに気付けるような性格ではないし。 龍麻の態度も何も変わらず、よく好きな相手の前で平静でいられるものだと、醍醐は思った程だ。 自分なんて、想う人が目の前にいるだけで、緊張でアガってしまうと言うのに。 お陰で、醍醐達にも二人がいつから“恋仲”になったのか判らない。 今でも本当に付き合っているのか、なんて勘繰ってしまう程に、二人の態度は変わらなかった。 「変わるトコも想像出来ないんだけど」 「ああ…そうかもな」 恋をしたら、人は変わると言う。 醍醐自身、そうである自覚がある。 数年前の自分が、どうしたら今の自分を想像出来ただろうか。 しかし、京子は変わらない。 出逢った頃よりは幾らか雰囲気は丸くなったが、言動、仕種、何をとっても変わらない。 彼女が女らしく振舞うなんて、それこそ全く想像がつかなかった。 「でも、ちょっとだけ、変わるかなって思ってたんだ」 「……そうか」 「うん。少しだけ」 親友。 恋人。 それらは確かに、違う枠になる。 龍麻も京子も、恋人同士であるからと、特別優先するような性分ではないように見える。 出逢った頃から不思議と息が合っていたが、それとこれとは恐らく別だ。 京子は相変わらず舎弟と一緒に賭博の真似事をしたり、一晩歌舞伎町で過ごしたり。 龍麻は他の女子生徒と普通に話をして、男子生徒とも普通に話をして。 “恋人同士”らしい仕種を、二人は全く見せない。 強いて言えば唯一―――――二人の関係が発覚した時の、キスぐらいのものか。 他に何か違うところがあるだろうか。 考えてから、醍醐はないな、と言う結論に行き着いた。 「僕、こういう事になった事なかったから、よく判らないんだけど」 「………」 「やっぱり違うものなんだろうなぁって思ってたんだ」 少なくとも、周りの子はそんな感じだった。 二人一緒に登下校をしたり、顔を合わせれば嬉しそうに照れ臭そうに笑ったり。 手を繋いで、誰かが冗談交じりに邪魔なんてしてやれば、不貞腐れたり怒ったり。 ほんの少し、何処かで何かが変わるものなんじゃないかと。 「何がって言われると判らないんだけど」 判らないけれど、何かが――――少し変わるんじゃないかと思っていた。 「結構、変わらないんだね」 「…蓬莱寺がそういう奴だからな」 「うん」 ついでに、お前も変わったようには見えないんだが。 そう思った醍醐だったが、言っても龍麻はきっと首を傾げるだけだから、結局飲み込んだ。 「不満なのか?」 相談を仕掛けてくるという事は、そういう事なのか。 問うてみるが、龍麻はしばらく首を傾げた後、どうかなァ、と呟いた。 「京が変わる所も、想像できないし」 「ああ」 「別に変わって欲しい訳でもないし…」 あれが急変した方が、正直言って戸惑うと思う。 他の女の子と一線を隔したような京子が、途端に周りの女子高校生達のような振る舞いをするなんて―――――考えられない。 だから、変わらない事に不満と言うか……不思議な気持ちはありながらも、安心もするのだ。 ありのままでいてくれる。 最初から今まで、これからも、ずっと。 どうなりたいと思っている訳でもないし。 どうしたいと願っている訳でもないし。 気付いた時には、友愛が恋心に変わっていて、彼女はそれを受け止めてくれた。 その時の真っ赤な顔は、まだ忘れていないし、綺麗に思い出す事も出来る。 ただそれだけで、その時はとても幸せで。 嫌なら嫌と、彼女の性格なら言うだろう。 下手に遠周しな言葉なんて選ばないで、正面からきっぱりと。 受け入れてくれた事が、彼女の何よりの答えだと、よく知っている。 「僕、こういう事今までなかったから、こういうのもあるのかなって」 「俺も経験がある訳じゃあないが……ない事はないんじゃないか?」 大きく変化する事もあれば、特に変わらない事もある。 心情的な変化の中で、それが表に出ない場合も。 どれが良いのかなんて、醍醐には判らない。 「何か変化が欲しいなら、お前から何かしてみたらどうだ?」 「……僕?」 「お前もいつも通りだからな。お陰で、お前達が付き合っているとは未だに思えなくてな…」 それらしい雰囲気が全くないのだ、この二人は。 本当に。 「でも、何かって、何を?」 「いや、それについては俺もなんとも……」 そういう事が判るのなら、醍醐ももっと行動している――――と、思う。 どうすれば想いが伝わるのか、仮に伝えられたとして拒否されたりしないか……はっきり言って、醍醐は奥手だ。 好きな人といつも一緒にいて、全く行動を移していない(精一杯のアピールはしているつもりだが)のは、未だどうして良いのかよく判らずにいるからだ。 そんな醍醐にして見れば、龍麻の方こそどうやって京子に告白したのか、聞いてみたい位だ。 「じゃあ、醍醐君は、桜井さんとどんな事したいの?」 「な、なんだ、急に」 「醍醐君だったら、どんな事したいかなぁって。僕、京に何がしたいのか、正直よく判らないし」 ……それでよく彼女への恋心を自覚した上、遂げたものだ。 受け止めた京子の方も、あっちはあっちで何処かズレているのかも知れない。 ―――――自分が、好きな人とどんな事をしたいのか。 考えてみる醍醐だったが、浮かんでくるのはどれも月並みと言えば月並みで、恋愛初心者らしいベタなものばかりだ。 例えば登下校は一緒だったり。 放課後の教室で二人きりで、なんでもいい、話をしてみたい。 ただ手を繋いでいるだけでも、醍醐にとっては相当緊張するが、叶うのならばそれも。 と、殆ど独り言気味の醍醐の言葉を、幾つか聞いてから、 「………手、」 呟いて、龍麻は自分の右手を見下ろす。 登下校が一緒になる事は、時々あるし。 二人で授業をサボって校庭の木の上にいれば、あそこは自分達だけの空間で。 放課後の教室に二人きりと言う事も(基本的に補習で)、珍しい話ではない。 今からこれをすれば特別になれるようなものは、あまり見つからない。 だけど。 (手は……繋いだ事ない、かな) 京子の方から、肩を組んできたりと言うスキンシップはある。 でも、手を繋いだ事はない。 彼女の事だ。 きっと子供っぽいとか、恥ずかしいとか言って嫌がるだろう。 でも、していない事と言ったら、それ位のものだ。 やろう。 決めて、龍麻は彼女が教室から出てくるのを待つ事にした。 後編 |