Seaside school V





二日目の夕食を終えて。
少人数に時間を区切られての入浴も済んだ龍麻は、ロビーの片隅に設置された休憩スペースにいた。

夜の海岸がよく見渡せる大きなガラス壁の傍に、プラスチック製の白い丸テーブル一つにつき、椅子が三つずつ配置されている。
スペースの一角には自動販売機があり、日中ならば此処に軽食を売っている出店がある。
今はもう静かなもので、出店もきちんと畳まれており、聞こえてくるのはロビーを歩く人の足音と話し声ぐらいのものだ。


三台並んだ自動販売機の中の一つに、龍麻の好きな苺牛乳があった。
お気に入りのブランドのものではなかったが、こういう場所では一つでもあるだけ良い。




苺牛乳一つを買って、龍麻は何をするでもなく、ガラス向こうの夜の海岸を眺めていた。
遠くに灯台の光がくるりくるりと光っていて、その灯台の光が照らす海の上では、船がゆっくりと進んでいく。
貨物船か、客船か―――大きさからして漁船ではないだろうが、詳しくは遠すぎて判別出来なかった。

船と言えば、確か一週間のうちの六日目に、クルージングが入っていた。
此処から見える海の景色と、海の上で見る海の景色がどう違うのか、今から少し楽しみになる。


でも、彼女はどうだろう。






(寝てるだけ、とか。ありそうだなぁ)






ゆらりゆらり揺れる船の上で、彼女が喜ぶようなものが見れるだろうか。
滅多に見ない光景にさえ、周囲に比べて随分とドライな反応をする彼女だから、他のクラスメイト達と一緒にはしゃいでいるとは中々想像できなかった。

彼女が喜ぶ事と言ったら、専ら体を動かすことに限るだろう。
相変わらず手放さない木刀を振るう機会は流石にないだろうが、例えば今日の昼間、男子の日程で行われた地引き網だったりとか、そういう類の方が彼女のお気に召すの間違いない。
実際、今日の女子の日程の調理実習も、彼女は最後まで殆どの作業に参加せずにいたらしい。


そんな彼女だから、ただ船の上で景色を楽しむなんて、途中で退屈を持て余すのは想像に難くなかった。




苺牛乳の中身がなくなって、龍麻は空のそれを持って立ち上がる。
自動販売機の横にあるゴミ箱に紙パックを投げてから、ズボンのポケットを探った。
指先に小銭が当たって、100円玉を二枚取り出し、自販機の前に立つ。

投入口に100円玉を入れて、さっきも飲んでいた苺牛乳のボタンを押そうとして、






ピ。

がこん。






横から伸びてきた手が、別のボタンを押してしまった。

しばし立ち尽くした龍麻の視界の端で、見慣れた影がごそごそと動いている。
それが誰であるかなど、いやそれ以前に龍麻相手にこういう事をしてくれる人物は、只一人しかいない。


ぷしゅっと音がして、その音の方向を見れば、買ったばかりの冷たい缶コーラを飲んでいる恋人がいて。






「……京」
「おう。これ、釣りな」






等と、平然と50円玉と10円玉をを差し出してくる。
受け取らない訳にも行かないので、ちゃんと返して貰った。

が。






「苺牛乳………」






自販機の前でしゃがみ込んだ龍麻に、京子はクツクツと喉を鳴らして笑う。
龍麻がなんのつもりで小銭を入れたかなど判っている上で、彼女はこんな事をしてくれるのだ。


ポケットの中にあった200円は、最後の手持ちだったのに。
京子がボタンを押したコーラは120円で、苺牛乳は110円だから、戻って来た釣り銭ではどうしたって足りない。
また買おうと思ったら、部屋に戻って財布を取って来なければいけない。

苺牛乳の為だから、それは別段苦にはならない。
ならないのだけど、今すぐ飲みたいのに、と思わずにはいられない。



がっくりと落ち込んでいる龍麻に、京子はにやにや笑いながら、同じようにしゃがんで缶コーラを見せ、






「あんな甘ったるいモンばっか飲んでっと、ジジィになる前に糖尿病になっちまうぜ。これやるから飲めよ」
「……苺牛乳がいい」
「んじゃ買えよ」
「…今お金ないよ」
「じゃあ我慢しろ。」
「…………」






明らかに面白がっている表情で、京子はあっさりと言ってのけた。
沈黙して見返す龍麻とは対照的に、やっぱり至極楽しそうに笑っている。






「……いいよ、もう」






買えないものは買えないのだから、仕方がない。
確かに京子の言う通り、我慢するしかないのだ。
先に一本飲んでもいたのだし。


肩を落として自販機を離れ、龍麻は先程まで座っていたテーブルに戻る。
部屋に戻って財布を取ってくる事も考えたが、その気力もなくなってしまった。






「ンだよ。怒んなよ」
「怒ってないよ」
「………へー」






龍麻は京子の顔を見ていなかったが、「何処が?」と言う風である事は声色で判った。


怒っていない。
怒っているつもりは全くない。

ないけど、苺牛乳が飲めなくなった事は確りと龍麻の中に根を下ろしていた。



小さな缶のジュースなどさっさと飲み干せてしまうもので。
空き缶をゴミ箱に捨てる音がした後で、自販機にコインを落とす音がする。

持っているなら自分で買えば良いのに―――――悪戯心とはそんなものだから、仕方がない。
ついで惚れた弱味と言うものか、京子のした事に怒るような気には中々ならない。
買った苺牛乳を落として零したとか、苺を踏み潰したとか、そういう訳でもないのだし。
買えそうだった苺牛乳が彼女の缶コーラに代わっただけの事だし。


……やっぱり苺牛乳は飲みたかったけど。




がこんと自販機のジュースの音がして、プルタブを開ける音がする。






「お前、風呂入ったのか?」
「うん。僕の班、早い時間だったから」
「で、それからずっと此処にいるのかよ」
「うん」






龍麻が割り振られた部屋では、現在、大人数でゲームが行われている。
女子も呼ぼうぜと誰かが言っていたが、果たしてそれは叶っただろうか。

風呂を上がって一旦部屋に戻ってから、トランプゲームが始まる時、龍麻もそれに誘われた。
しかし、暇を持て余した別の部屋からの参加者が増えてきて、あっと言う間に室内の人口密度が定員オーバー。
喉も渇いたしと拙い言い訳をさせて貰ってゲームを抜けて、今に至る。


喉は潤った。
一本だけだが、苺牛乳を飲めた。

………何度考えても、出来ればもう一本飲みたか――――








「おらよ」








ぶっきら棒な声と共に、テーブルにドンと置かれたもの。
四角いピンク色の紙パック。

――――――言わずもがな、龍麻所望の苺牛乳であった。



顔を上げると、隣に京子が立っていて、眼が合った。
此処には他に誰もいないから、この苺牛乳を買ったのは勿論彼女で。






「ンだよ。いらねえのかよ」
「いる」
「よし」






見上げてくる龍麻に顔を顰めて問うた京子だったが、間髪入れない龍麻の返事に満足してくれたらしい。
からりと笑って、嬉しそうなその表情のまま、龍麻の隣の椅子に座った。



京子はタオルを肩に引っ掛けて、肌は少し赤らんでいた。
恐らく、ついさっき風呂に入ったばかりなのだろう。

服装はタンクトップに短パンという簡素なもので、多分、この格好で寝るのだ。
ブラジャーをつけていない所為で、胸元が酷く無防備な状態になっている。
此処に誰もいなくて良かったとこっそり思う龍麻である。


そしてこんな時でもいつもの通り、片手には紫色の太刀袋。
まさか浴場にまで持って行ったのだろうか。
……在り得る。



紙パックにくっついているストローを取り出して、吸い口に差し込む。
ちゅーっと吸えば待望の甘い味がして、嬉しくなった。






「昨日あんだけ苺アイス食っといて、まだ苺か」
「これ、苺牛乳」
「ハイハイ」






別物なんだろ、と。
判ってるよと、京子はおざなりな返事。

でも京子だってラーメンが好きで、一日三色コニーのラーメンでも飽きずに食べていたりする。
お互い様だと龍麻は思うのだけど、一緒にすんなと怒られそうなので止めておいた。
……一緒だと思うが。






「あーあッと」






ぼやき開始の合図のような声をあげて、京子は椅子の背凭れに寄り掛かる。






「今日すっげー退屈だったぜ」
「調理実習?」
「おう。いいよな、地引き網。大漁だったんだろ」
「うん」






京子の言葉に頷けば、忌々しげに睨まれる。

そんな顔で腹を立てられても、八つ当たりされても、龍麻がどうにか出来る訳でもない。
けれど龍麻は、彼女の八つ当たりに嫌な顔はしなかった。






「その後、漁師のセンセー達が魚捌いて刺身にして食ったって?」
「うん。美味しかった」
「ふーん。そりゃ良かったね」






京子の目がすぅと細くなる。

オレは退屈だったってのに。
そう言いたそうだった――――否、音にしていないだけで言っていた。






「京も美味しいもの食べたんでしょ? アワビとか食べたって、桜井さん達言ってたよ」
「ああ、ありゃ美味かった。美味かったけど、暇だったんだよ。なーにが自分たちでやれだ、ハナから料理で出してくれりゃいいのによ」
「それだと、調理実習にならないよ」
「ならなくていい」






言って、京子はコーラを口一杯に含んで、飲み込む。
直ぐに「げふっ」と炭酸ガスの漏れる音が聞こえた。



自動販売機の方で、ガタンと音がした。
なんとなく其方を見てみると、遠野が其処にいる。

京子からは後ろ側になっているので、見えていない。


買った缶ジュースを片手に、遠野は此方へ振り向くと、デジカメの液晶画面を此方に向けた。
いつもなら直ぐにファインダーを向けられるのに、どうしたのだろう。
思ってよく目を凝らして液晶を見ると、いつの間に撮られたのか、今この瞬間の写真が其処に収められていた。
京子が気付かなかったのは、風呂上りの油断だろうか。


龍麻がしばらく遠野の方を見ていると、京子もその視線の行く方向に気付いたようで、倣って後ろを振り返る。
その時には既にデジカメは収められていて、遠野は缶ジュース片手に立っているだけだ。

此方に来て話をする気はないようで、ひらひらと手を振って脱兎の如くロビーを駆け抜けていった。







「……………なんでェ、ありゃ」







言いながらも、良い予感はしていないのだろう。
京子の眉間の皺は深い。






「いいんじゃない。遠野さん、元気そう。―――実習の時、大変だったんでしょ?」






昼間の男女別授業。
龍麻達が地引き網漁、京子達が調理実習をしていた時。
女子生徒達の授業中の事件は、男子生徒の耳にも入っていた。


一班の料理が丸々焦げて、しかも結構な火の手になったらしい。
幸い、生徒達には誰一人怪我はなく、火事も直ぐに消化したそうだが、それが京子達の班だと聞いて―――――勿論其処に小蒔もいた訳で、醍醐はおおいに慌てて小蒔の下へすっ飛んで行った。

火が上がった時、京子はサボって班から離れていて、葵と小蒔はそんな京子を連れ戻すべく説得していた。
そんな訳だから、現場に残っていたのは遠野一人。
火の手が上がってしまったのを自分の不注意と感じて、授業後に男女が合流した時は随分落ち込んでいた。




でも、今しがた走っていった彼女は、いつも通りの後ろ姿で。






「まーな」
「ね」






エレベーターに乗って見えなくなってしまった遠野を思いつつ、龍麻は京子に笑んでみせる。
京子はそんな龍麻を見て、がしがしと頭を掻いてから、先程の脱兎のような友人の行動も目を瞑る事にした。






「そう言えば……火を消す時、京、七輪台蹴り倒したって聞いたけど」
「ああ、蹴った」
「足、怪我しなかった?」
「してねえよ」
「本当?」






食い下がってくる龍麻に、また京子の眉間に皺が寄る。

言った所で信用しないと思った京子の行動は早かった。
履いていた靴を脱いで裸足になって、龍麻に自分の足を見せてやる。






「ほらな。何もねえよ」
「捻ったりしてない?」
「だからしてねェって」






しつこいな。
溜息交じりに、京子のそんな呟きが聞こえた気がした。



そのまま京子は足を下ろさず、空いていた椅子をガタガタと引き寄せて、両足を其処に乗せてしまった。
葵がいれば注意されるところだが、京子にとっては幸いな事に、此処に彼女はいない。



龍麻から見て彼女の向こうにあるのは、窓ガラス越しの星光と、夜の海。
時折京子はその窓の向こうに視線を遣って、目を細める。
数分前に龍麻が見つけた船はもう見えなくて、彼女が夜の海の中に何を見つけたのか、龍麻には判らない。

ロビーから聞こえてくる足音はいつの間にか形を潜め、どうやら今この空間にいるのは、自分たち二人と受付のホテル従業員だけになったようだった。
風呂に向かう生徒と、風呂上りの生徒の行き交いも終わったのだろう。
階段やエレベーターから人が降りてくる気配もなかった。


龍麻は立って、座っていた椅子を少し寄せた。
その際の物音に京子が此方を向く。

数十センチ分空いていた二人の距離が、小さくなっていた。






「なんでェ?」
「ううん」






何か用でもあるのかと問うてくる京子に、龍麻は小さく首を振る。


直ぐ隣に座って、龍麻はテーブルに頬杖をつき、傍らの恋人の顔を眺める。
京子は暫くそれを正面から受け止めていたが、その内見詰め合っていることに気付いてか、がしがしと頭を掻いてそっぽを向いた。
綺麗な瞳が逸らされたのは少し残念だったが、見るなと言われなかったからいいか、と龍麻は思った。




―――――ふと。

そっぽを向いた京子の項に目が行った。




京子の首の後ろは、ほんのりと赤くなっている。
風呂上りの火照りはもう収まっているから、多分それとは要因が違う。

じっと其処を見ていると、京子はその視線を感じるのだろう。
丁度龍麻が見ている項に手を当てて、居心地が悪そうに頭を揺らす。


龍麻は手を伸ばして、彼女の手を捉まえた。






「…だから、なんだってんだよ、お前ェは」
「なんでもないよ」
「なんでもって―――――」






項から京子の手を離させて、代わりに龍麻は自分の唇を寄せた。
肩口までの長さの髪の毛の隙間、生え際の場所。

ぴくっと京子の肩が揺れた。






「止めろ、バカ」
「大丈夫だよ」
「何が」
「誰もいないから」
「そういう問題じゃねェ」






受付の従業員はいる。
いるけれど、此処から向こうは伺えないから、向こうも此方を見る事は出来ないだろう。
でも、多分会話は聞こえている。


逃れようと試みる抵抗をあっさりと封じて、龍麻はもう一度、同じ場所に唇を押し付けた。
ほんの少し舌を這わすと、声を押し殺すように京子が口を閉じる。

小さく震えて声を押し殺す姿は、いつもの勝気な様子とは随分違って、龍麻はそれを可愛いと思う。



でも此処でこれ以上何かをしたら、もれなく裏拳か後頭部での頭突きを食らう事になるだろう。





掴んでいた手を離して、龍麻は京子を解放した。
途端に、椅子に立てかけられていた太刀袋に入ったままの木刀を、躊躇いなく振るわれる。








「盛ンな、この阿呆ッ!!」








此処で叫んでいい台詞じゃないだろう言葉が、ロビーに響き渡る。


振るわれた木刀は、龍麻の手で確り挟まれ、それ以上は動かなかった。
京子も最初から当たるとは思っていなかったのだろうが、ぎりぎり歯を鳴らして刃を引かない。
そんな恋人を見て、結構怒ってるなぁ、と龍麻はのんびりと考えていた。






「別に盛ってないよ」
「何処がだッ」
「ちょっと仕返ししただけだよ」
「なんのだよッ!?」






ぐぐぐっと力任せに押される木刀を、しっかりと受け止めて。
龍麻は京子の言葉に、クスリと笑う。








「昨日の苺アイスと、さっきの」








――――――昨日、臨海学校一日目。
到着してホテルで諸注意を済ませた後、生徒達は我先にと海に飛び込んでいった。


しかし龍麻は海岸には出向いたものの、ホテル横のコンビニで売っていた苺アイスを大量に買い込み、日陰でのんびりとアイスを食べていた。
その時分、龍麻は海に入る気はなくて、アイスを溶ける前に食べ切る事しか考えてはいなかった。
其処に彼女はやって来て、龍麻を海に向かわせるべく取った行動した。

先ずは大量に買い込んだアイスの確保。
それを荷物番の如く浜辺で動かずにいた犬神に投げ渡して押し付け、後は力任せに龍麻を連行した。






「昨日、苺アイス投げたよね」
「……犬神に渡しただけだろ」
「うん。だからその時、投げたよね」






龍麻が言わんとしている事を、京子は恐らく察している。






「あのまま走って渡しに行くより、あの方が早かったんだよ。チンタラしてたら溶けるじゃねーか」
「うん」
「別にいいだろ、アイツもちゃんと取ったし。駄目になった訳じゃねーし」
「うん」






笑みを崩さぬ龍麻に、京子の顔が引き攣り始める。


あれが彼女なりの気遣いで、アイスの事も彼女なりに考慮してくれたのだ言う事は、判っている。
怒るのならばあの時に怒るのが正当なタイミングで、今蒸し返しても少し理不尽であろうとは思う。

だからこれは、本当に単なる意趣返し。
本気で怒っていると言う程ではなく、ただ自分ばかりが振り回されるのが少し悔しかった。
さっきだって龍麻の入れたお金で彼女はコーラを買って、悪ガキのように笑っていた。
彼女の笑顔は好きだけど、かと言って振り回される事まで全部容認している訳じゃない。

龍麻だって、たまには京子を振り回してみたい。
そう言ったら、しょっちゅう振り回されてる、と京子は苦々しい顔をして言うのだろうけど。






「それも買ってやっただろーが、もうお相子だろ」






苺牛乳を指差して、これでチャラになった筈だと京子は言う。






「うん。でも、ちょっとだけ意地悪したくなったんだ」
「だからって人の首を舐めるなッ」






一旦退いた木刀がまた振るわれる。
龍麻は椅子から退いてそれを避けたが、京子は構わず追い掛けて来た。






「逃げんな、コラ!」
「冗談なのに」
「だったら尚更舐めんじゃねーよ!」
「じゃあ、どっちがいい? 冗談と本気」
「どっちも御免だッ!!」






それまで静かだった筈のロビーが、京子の怒鳴り声で賑やかに――――否、騒がしくなる。
ロビーの受付の従業員が此方を覗き込んでいたが、京子はそれに気付かずに木刀を振り回す。

周りのホテルの備品には当たらないように振るわれている木刀。
しかしこのまま京子の激昂が続けば、直にそれも見えなくなるだろう。
壊してしまっては大変なので、龍麻は休憩スペースから出た。
勿論、京子も追い駆けてくる。






「待ちやがれ、このバカ!」
「だって待ったら当たるよ」
「そのつもりなんだよ! 大人しく一発やらせろッ!」
「京、えっち」
「そういう意味じゃねェ――――ッッ!!!」






我武者羅に振られる木刀など、龍麻は容易く避けられる。
京子もそれが判らない訳ではないだろうに、全く剣先はまともな方向を向こうとしない。

彼女の得物は、龍麻を狙う所じゃない。
いや、彼女自身も恐らくそうだ。
今の龍麻の発言もあってか、怒りに加わって羞恥で顔が真っ赤になっている。




二人の喧嘩の様子は、見慣れた人間にとっては、特に気にするような代物ではない。
真神学園一の不良少女の蓬莱寺京子と、古武術を得意とするミステリアスな転校生のカップリング。
沸点の低い京子が何かと怒鳴って木刀を振るい、龍麻がそれを平静と避けて見せるのは、特に見慣れたクラスメイト達にとっては一種のアトラクションと化している。

だが見慣れない人々にとっては。
京子が本気で当てる気があろうとなかろうと、龍麻がどれだけ平然と避けて見せようと、物騒極まりない光景である。


人のいなくなったロビーの真ん中で、京子は木刀を振り回し、龍麻はそれを避ける。
ロビーの真ん中にいるのだから、当然、受付からは丸見え―――と言うより、その真正面に二人はいた。

つい先程まで、休憩スペースで二人仲良く静かに話をしていた筈の生徒が二人。
恋人同士の痴話喧嘩であろうと、喧嘩は喧嘩な訳で、それも口論ではなく手が出ている喧嘩で。
従業員達が黙って放置していられる筈もなく―――――――









「コラ! 其処のバカップル二人ッ!」

「誰がだッ!!」









響いた声に京子が振り返って叫べば、其処にいたのは担任マリア・アルカード。

毛を逆立てた猫のように目を吊り上げている京子に、マリアはすたすたと歩み寄る。
そして直ぐ前まで来ると、わざわざ部屋から持ってきたのか、出席簿で京子の頭を叩いた。






「どーしてアンタ達はもう少し大人しくしてられないのかしらね」
「オレの所為じゃねえ! このバカが、」
「声が大きい!」
「でッ!」






声を荒げて反論する京子に、再び出席簿が落ちた。
続け様、龍麻の頭にもそれは落ちて来て、小気味の良い音を立てる。






「理由を聞くから、二人とも来なさいッ」






腕組して言ったマリアの表情は、言外に「一応だけど」と前置きが打たれている。

担任している生徒達の人間関係を、マリアは勿論把握している。
龍麻と京子が恋人同士だと言う事も、こんな遣り取りは日常茶飯事である事も。
それでも連絡をしてくれた従業員達の手前、一つ叱って釈放は出来ないのだ。



踵を返して階段を上っていったマリア。
勿論、龍麻も京子も行かない訳には行かないので、龍麻は直ぐに歩き出した。

しかし、京子は動こうとしない。






「京」






行かないとまた出席簿で叩かれる。
表紙に固い厚紙を使われているからだろう、案外痛いのだ、あれは。

行こうと促す龍麻に、京子は唇を尖らせた。






「オレが悪ィんじゃねェ」






龍麻が悪い、と京子は言わなかった。
けれども、自分が悪いとは思いたくないらしい。






「うん。でも、行かないと」
「…………」
「ほら」






益々拗ねた顔になるのが、小さな子供みたいだ。
そう思った事が顔に出ないように気を付けて、龍麻は京子に左手を差し出した。



京子はしばらくその手を見つめて、木刀を左手に持ち替えてから、右手を重ねる。












二人並んで担任を追う背中を見て、「ケンカ中じゃなかったのか?」とホテルの従業員達が首を傾げていた。


――――――そんな事など、勿論二人が知ることは、ない。

















龍麻と京子のジュースの遣り取りが最初に思い浮かびました。
それから龍麻のちょっとしたイジワル。

龍♀京は基本的には京子が龍麻を振り回してるんですが、スイッチ(なんの?)入ると形勢逆転です。