Memorable summer 後編








京、と父に呼ばれていた子供は、この辺りの道に随分と慣れた足取りをしていた。
この街に住んでいるのだから当然だが、それでも龍麻は驚いていた。
だって龍麻にしてみれば、この東京と言う街は全部が迷路のような気がしていて、どっちに歩いて行けば良いのか判らない。
それをこの子は右に行くにも、左に行くにも、迷わずすたすたと進んで行ってしまうのだ。

京はさっさと進んでしまうから、龍麻がうっかり辺りを見回していたりしたら、あっという間に距離が空いてしまった。
とにかく、置いて行かれないように、時々小走りになりながら追い駆ける。



途中、京が立ち止まったので、龍麻も立ち止まる。
其処はコンビニの前だった。






「お前、暑くねェか?」






ミィミィと煩く蝉が鳴く中。
タンクトップに短パンの京は、額にじんわりと汗を滲ませながらそう言った。

季節は夏。
アスファルトからの照り返しで、気温は勿論、体感温度もかなり上昇している。
都会独特の暑さに慣れていない龍麻も汗を流していた。


京の言葉に「暑い」と正直に返すと、京はコンビニの中に入って行った。
龍麻も一緒に自動ドアを潜る。



京が迷わず向かったのはアイスボックスで、足りない身長を背伸びしてボックスの中を覗き込んだ。
龍麻もその横で背伸びをしてボックスを覗き、其処に苺アイスを見つける。

龍麻が住み暮らす田舎に、24時間営業しているコンビニはない。
あるのは駄菓子屋で、其処にアイスは売っているけれど、昔ながらと言った商品しか並べられていなかった。
だから、テレビのコマーシャルで流されるような新商品のアイスは、一番大きなスーパーに運が良ければ並ぶ位。

龍麻が見つけた苺アイスは、コマーシャルで見てずっと気になっていたアイスだった。


京がボックスのスライドドアを開けて、ボックスに乗り出して手を伸ばす。
京が撮ったのはソーダ味の氷アイスだった。






「お前、何がいい?」






問われて、龍麻も京のようにボックスに乗り出す。
苺アイスを手に取って見せると、京は受け取って、すたすたとレジへ向かった。

ボックスのスライドドアを閉めてから、龍麻もレジへ。


京はポケットからお金を出して、レジに置いた。
店員の女性が支払い分だけ数えて引き取り、お釣りを京に渡す。






「ほらよ」
「…ありがと」
「ん」





苺アイスを渡されて礼を言うと、ぶっきらぼうな声が返ってきた。
そんな京の耳は、ほんのり赤い。


コンビニを出ると京は早速アイスの封を切り、冷たいそれに齧り付いた。
龍麻も同じく、アイスを口に運ぶ。

アイスを食べながら歩き出した京に倣って、龍麻もまた歩く。

隣で「暑ィ」とか「だりィ」とか、「あのクソオヤジ」とかぼやく声が聞こえたが、龍麻は何も言わなかった。
何を言えば良いのか判らなかったし、単なる独り言である事は明らかだ。
沸点が低いこの子を怒らせないように、龍麻はなるべく大人しくしていた。



空から降り注ぐ真夏の太陽が暑くて仕方がない。
それだけ冷たいアイスも美味しいのだけど、肌をじりじりと焼かれるのは辛かった。



アイスを食べ終わると、京はゴミになった棒を自販機の側にあったゴミ箱に捨てて、龍麻を見遣り、






「……お前、食うの遅ェな」
「………そうかな…?」






大分溶けてきたアイスを食べている龍麻に、京は呆れた目で言った。






「さっさと食えよ、手ェベタベタになんぞ」
「うん……あ」
「どんくせェなァ」






言っている側から、溶けたアイスが龍麻の手に垂れた。
ほら見ろと益々呆れる京に、龍麻はむぅと唇を尖らせる。

ハンカチを取り出したかったが、アイスを持つ手は右手、ハンカチの入れたポケットも右手側。
どうしようと空の左手を彷徨わせていると、京が先にポケットからハンカチを取り出した。






「ほらよ」
「…………」






差し出されたハンカチを見て、龍麻はぱちりと瞬き一つ。

京が取り出した布は、白いレースにピンク色の糸でパンダが刺繍された可愛らしいものだった。
とてもではないが、目の前のような子には似合わない位の。


龍麻は、ハンカチと京の顔を交互に見比べた。
京はしばらくそれを甘受し、何をしているのかという顔をしていたが、暫くすると龍麻の行動の意味に気付く。
すると、沸騰したかのように真っ赤な顔になった。






「母ちゃんが押し付けてきたんだよッ!! オレだって使いたかねーや、こんなモン!」






怒鳴られて、龍麻はビクッと肩を跳ねさせた。
が、怖かったのはその時だけで、後は真っ赤な顔でうーうー唸る京に、そうなのか、と納得しただけ。

龍麻も、母から可愛らしいハンカチやティッシュ入れを貰う事がある。
苺の柄だったり、動物のアップリケが縫い付けられてあったり、凡そ男の子が持つには不相応だ。
龍麻は別段そうと思っていないが、学校で他の子供達に見られると揶揄われる事はままあった。


そうなんだ、と龍麻が納得している間に、京はハンカチを龍麻の左手に押し付けた。
龍麻はそれでベタついた手を拭き、返そうとして――――このまま返すのはどうなんだろう、と思い至った。

白くて綺麗だったレースのハンカチは、苺アイスのピンク色が付着している。
折角まっさらな白だったのに、これは勿体無い。
でも洗って返すとか言っても、直ぐに二人は別れるのだし―――――


と、つらつらと考えていると、京の手がハンカチを引っ手繰った。






「拭いたんならボケっとしてねェで早く食えよ。またベタベタになるぞ」
「あ……うん」






ハンカチが汚れた事など気に留めず、京は色のついたハンカチをまたポケットに入れた。
いいのかなぁと思いつつ、持ち主が気にしていないのなら、これ以上龍麻が言える事はない。
取り敢えず京の言う通り、右手にまたアイスが付く前に食べようと齧り付いた。

溶ける雫を掬うように舐めながら、カップアイスにすれば良かった、とぽつりと思った。




幾つかの角を曲がると、大きな道に出た。
その道には、此処まで歩いてきた道よりも沢山の人がいて、車が行き交っている。

少しだけ見覚えが有るような気がして、龍麻は辺りを見回した。
京はやはりすたすたと歩いて行ってしまうから、置いて行かれないように気をつけて進む。



アイスの最後の一齧りを食べて、龍麻はアイス棒を通り過ぎかけたゴミ箱に捨てた。

一度は食べたいと思っていた苺アイスは、美味しかった。
もう一回ぐらい食べてみたいけれど、田舎に帰ったら恐らくそれは適わないだろう。
勿体無くて、帰る前に母におねだりしてみようか、と思う。


道沿いに植えられた木の上で、ミィミィと蝉が鳴いている。
田舎にいれば何重にも輪唱して聞こえるそれは、この都会では独奏になっていた。
その上、龍麻の見つけた蝉が止まっているのは並木ではなく、コンクリートで出来た電柱。
暑くないのかな、と龍麻は電柱上の蝉を見上げながら首を傾げた。


ブー、と音を鳴らして、大きなバスが通り過ぎる。
龍麻が乗っていたバスとは違う色のバスだったから、これに父と母は乗っていないだろう。




前を歩いていた京が立ち止まり、龍麻も足を止めた。
くるりと京は振り返り、目前にあるバス停を指差して言った。






「この辺のバスは皆このバス停通るから、此処で父ちゃんと母ちゃん待ってろよ」
「うん」
「うろちょろすんなよ。お前みたいなの、絶対また迷子になるからな。そしたらオレが父ちゃんにドツかれるんだぞ」
「うん」






親切にしてくれたのに、そんな目に遭わせてしまうのは申し訳ない。
龍麻は、今度は京の言葉に素直に頷いた。






「じゃ、オレ帰るからな」
「うん。ありがとう。アイスも美味しかった」






龍麻の言葉に、京の顔が赤くなる。
と思ったら、プンッとそっぽを向いてしまった。

そのままUターンしてバス停から離れて行く京に、龍麻はひらひらと手を振る。
京の足取りは迷いなく、寧ろ早足で進んで行くから、多分振り返ることはないだろうと龍麻は思った。
でも、見ていないと判っていても手を振っていたかった。



――――――の、だけど。



バス停を離れて、その姿が行き交う人並みに埋もれるかと言う所で、京は立ち止まった。
龍麻は一瞬、道が判らなくなったのかと思ったが、龍麻を此処まで連れて来たのは京だ。
この辺りの道には慣れているようだし、ついさっき歩いた道だし、判らなくなるなんて事はないだろう。

どうしたのかと龍麻が遠目に様子を眺めていると、京はがりがりと頭を掻いて、方向を変えた。
龍麻のいるバス停ではなく、広い道のバス停とは反対側の端に設置された自動販売機へ。


視線で京を追い駆けると、京はポケットから取り出した小銭を自販機に入れた。
背伸びしてボタンを押して、落ちてきたジュースを取り出す。
その動作を、二回。

コーラとオレンジジュースのペットボトルを手に、京はくるりと振り返った。
バス停へ、龍麻の方へ。






「どうしたの?」






すたすたと近付いて来る京に尋ねる。
しかし、答えは返って来なかった。

代わりに。






「ん」






ずい。

オレンジジュースのペットボトルが龍麻へと突きつけられる。


どうして良いのか判らず、龍麻はきょとんとして京を見詰める。
京は、そんな龍麻を睨むように仏頂面で見返していた。

突きつけられたペットボトルが引っ込む様子がなかったので、龍麻は取り敢えずそれを受け取ってみることにした。
それは正解だったようで、オレンジジュースが手元からなくなると、京はふいっとそっぽを向く。
が、またバス停から離れて行く事はなく、バス停の柵に寄り掛かってコーラの蓋を開けた。






「……帰るんじゃないの?」
「…………お前ほっとくとまた迷子になりそうだからな。お前ェの父ちゃんと母ちゃん来るまでいてやる」






仏頂面で、京は其処まで言い切って、コーラを飲む。


ぶっきら棒な言い方だったけれど、龍麻はちゃんと判った。
都会に不慣れな龍麻を心配して、両親が来るまで自分が保護者代わりで此処にいると言うのだ。

判り難いけれど、京はちゃんと優しい子なのだ。
父に言われたのが切っ掛けでも、此処まで案内してくれて、アイスも買ってくれたし、ジュースもくれた。
きっとこの子は少し素直じゃないだけで、とても人を思いやる事が出来るんだと、龍麻は知った。






「ありがとう」






自販機から出て来たばかりの、冷たいオレンジジュースを手に、龍麻はそう言った。
途端、京の顔が暑さだけではないだろう理由で、ぼっと赤くなる。






「お、前ェに、なんかあったらッ、とーちゃんが煩ェんだよッ! さっきも言ったろッ」
「うん。ありがとう」
「だーかーらー! 礼なんかいらねーよ! もう黙ってろッ」
「うん」






照れ屋な京は、どうやら「ありがとう」が苦手らしい。
真っ赤な顔で怒鳴る京を、龍麻は初めて、怖いと思わなかった。


恥ずかしさを誤魔化すように、京はコーラをペットボトル半分まで一気飲みした。
龍麻は炭酸自体が余り得意ではないけれど、全く飲めない訳ではない。
炭酸を一気飲み出来るなんて凄いなぁ、と眺めていると、京はコーラを口から放すと盛大に咽込んだ。
あまりに苦しげに咽返る京に、龍麻は苦笑し、ぽんぽんと背中を叩いてやった。

宥めた龍麻に京から何も言う事はなかったけれど、ちらりと一度、大きな瞳が此方に向いた。
少し拗ねたような表情が伺えて、龍麻は大丈夫そうで良かったとにっこりと笑う。
と、また京はそっぽを向いた。




なんだか不思議な気分だ。
此処は都会の真ん中で、生まれ育った山間とは似ても似つかない。
全く違う環境の中で両親と離れ離れになって、落ち着かない事に嘘はない。

けれども、バスを降り間違えて一人で歩き回っていた時の不安は、既になかった。
誰のお陰かなんて考えるまでもない、今隣にいる子のお陰だ。


アイスも美味しかったし、ジュースも冷たくて暑い夏には気持ち良い。
慣れない土地に一人じゃ不安だろうと、一緒にいてくれるのも嬉しい。
お喋りする事がなくても、龍麻はそれで十分だった。





大きなバスが停留所に滑り込んできた。
沢山の大人の人がバスを降りて、散り散りにあちらこちらへと歩き去って行く。

その降りて来る人達の中に、龍麻は待望の人を見つけた。






「お父さん、お母さん!」
「ひーちゃん…!」






駆け寄って飛びつけば、母は抱き止めてくれた。
そのまま、ぎゅうと強く強く抱き締められて、見上げれば泣き出しそうに笑っている母の顔。
心配かけてしまったのだと、龍麻は強く反省した。






「ごめんね、ひーちゃん。お母さん達、もっとちゃんと手を繋いでいたら良かったわね。あれからお母さん達、バスを降りて探し たんだけど、見付からなくって……良かったわ、此処にいてくれて。ごめんね、ひーちゃん」
「ケガはないかい? ひーちゃん」






母の言葉には首を横に振って、父の言葉には頷いた。


手を離して降りてしまったのは自分のミスで、母はきっと焦っただろう。
これは心配をかけてしまった自分が悪い。
怪我は本当に一つもしていなくて、ちょっと沢山歩いて足が疲れたぐらいだ。

両親が心配するような事は、何一つ無かったと言って良い。
それもこれも、此処まで一緒に来てくれた子のお陰だ。






「大丈夫だよ、お父さん、お母さん」
「良かったわぁ……それにしても、よく此処まで来れたわね。一人で来たの?」
「ううん。あの子が連れてきてくれたんだよ」






そう言って、龍麻はずっと柵に寄り掛かって此方を眺めている京を指差した。
父と母の視線も其方へ向いて、京はそれに気付くと、ぷいっとそっぽを向く。
まるで「関係有りません」と言うように。

それでも母は京に歩み寄ると、しゃがんで同じ目線になって、






「ありがとうねェ、本当にありがとう」
「……別に……とーちゃんがつれてってやれっつったから」
「あら、あら。ありがとうね」






繰り返し感謝を口にする母に、京の顔はどんどん赤くなる。
火が出てしまいそうなくらいに。






「お礼したいけど、ごめんなさいね、時間が無くって」
「…いーよ、そんなの。それより、アイツ一人にすんなよ。すぐ迷子になるぞ」
「そうね。貴方も気を付けて帰ってね」
「…………」






柔らかい笑みを浮かべて、母は京の頭を撫でた。
京は俯いてそれを甘受していたが、瞳があちらこちらに彷徨っている。

家にいる時は父親とケンカのように遣り取りしていたのに、今は縮こまったように静かだ。
戸惑っているようにも見えるから、多分、こういった柔らかい当たり方に慣れていないのだろう。
龍麻とはまるで正反対だ。


母はしばらく京の頭を撫でていて、龍麻は父と並んで、その様子をじっと見ていた。
が、程なく時計を見た父が、ああ時間だと呟き、






「母さん、そろそろ行こうか」
「ええ。ありがとうね」
「………いーってば」
「ほら、ひーちゃんも」
「うん。ありがとう」
「……いーっつってる」






京の顔はもう沸騰寸前だ。
頭にヤカンを置いたら、きっと直ぐにピーッと音を鳴らすに違いない。



母が龍麻の手を握って、行きましょうかと促した。
それに頷きかけて、龍麻はふと、気付く。

此処まで案内してくれた子が、自分の名前を知らない事。
京も自分で龍麻に対して名乗っていないから、お互い様といえばお互い様だ。
けれども、此処まで案内してくれた京の中に、自分の存在の欠片が残っていないのはなんだか酷く寂しく思えた。
自分は“京”を知っているのに。


歩き出そうとした母の手を握って引き止めて、ちょっとだけ、とお願いする。
幸い、乗る予定としているバスは到着したばかりで、乗り込む人達が多くて直ぐに出発する様子はない。






「ねえ」
「あ?」






母と手を繋いだまま京へ首を巡らせて。






「僕ね、龍麻。緋勇龍麻」
「……なんだよ、急に」
「なんとなく」






覚えていて欲しいと思っている訳じゃない。
出来れば、覚えていて欲しいけれど。

ただ自分が残して置きたかっただけなのだ。
照れ屋で優しい、この子の内側に、自分がいたという記憶を。
例え直ぐに埋もれてしまうものだとしても。



龍麻の言葉に、京は意味が判らない、と言うように眉間に深い皺を刻む。
しばらく考えるようにがりがりと頭を掻いて、視線をあちらこちらに散らしていた。

沈黙の数秒が、龍麻にはやけに長く感じられた。


その静けさを破ったのは、京の方で。









「……きょーこ」









中身が半分になったペットボトルを肩に担ぐように乗せて。
もう直ぐにでも踵を返そうとするかのように、体は半分捻って、頭だけが龍麻の方へと向いていた。
だから先の言葉は、間違いなく龍麻に向けられたものだ。

けれども、龍麻は一瞬その言葉を理解できず、ぱちりと瞬き一つ。
それを聞こえていないと思ったのだろう、“京”はもう一度。






「京子だ。蓬莱寺京子」
「……京子、ちゃん?」
「あー」






確認するように呟いた龍麻に、“京子”は気の抜けた返事を零す。






(女の子)






知った事実に、龍麻は驚いていた。
心の底から、純粋に。


少し癖のある髪の毛は、肩にかかる位の長さ。
龍麻と違って釣り上がった目尻は、瞳の強い光と相俟って、勝気な印象を持たせる。
肘や膝、顔の絆創膏やガーゼは、やんちゃな風を演出していた。

顔立ちだけで言えば中性的にも見えるけれど、口ぶりは完全に男の子のものだった。
自分の事を「オレ」と言うし、父親も息子を相手にするように足蹴にしたりしていた。


だから龍麻は、“京”を“男の子”だと思っていたのだけれど――――――




龍麻の心中など知る由もなく、京子はくるりと背を向けた。






「じゃあな。もう逸れんなよ」
「――――うん」






背を向けたまま、京子はひらひらと手を振って歩いて行く。
さっきまで人が沢山いた筈の道は、バスが幾つか出て行ったからだろうか、少し閑散としていた。
その所為で、ペットボトルを肩に担いだままバス停を離れて行く京子の後姿は、いつまでも見えている。


龍麻はしばらく棒立ちでその背中を見送っていたが、母に背を押されて目的のバスへと乗り込んだ。
バスの中は外界と違ってクーラーが効き、外の熱で火照った肌には寒ささえ感じられた。

手に持っていたオレンジジュースのペットボトルには、沢山の雫が球になって浮いている。
母がタオルに包んで鞄に入れて置こうと言ったけれど、龍麻はそれを断った。
照れ屋な優しい子が買ってくれたそれを手に持って、靴を脱いで座席に膝立ちになり、窓に張り付く。



エンジンがかかり、バスが発車する。
発進方向は、京子が歩いて行った方向と同じだった。





都会に来てから、数えてみれば一週間足らず。
けれど、龍麻は何年も此処にいたのではないかと言うほどに沢山のものを見た。


人が、車が、電車が、ひっきりなしに行き交い、夜になっても一向に暗くならない街。
コンビニ一つでも品物が沢山あって、田舎には売っていないもの、見る事すらないものが山ほどある。

道行く人達の格好も色んな色や形があって、キラキラ光っているものを身に付けている人も多い。
龍麻がよく見る大人の人の格好といったら、畑仕事をする時のモンペ姿が殆どだったと思う。
甘い匂いのする大人もいて、田舎では土の匂いが殆どだから、龍麻は最初、なんの匂いか判らなかった。
香水と言うものがあるのだと母に教えて貰ったけれど、それで匂いをつける意味が龍麻にはまだ判らない。


怖いものも一杯あったけれど、面白いものも一杯見れた。
何より、父の作った作品を沢山の人が認めてくれたから、やっぱり龍麻は東京に来て良かったと思う。



それに、友達も出来た。

もう二度と逢わない、今日だけの友達かも知れないけれど。
向こうは父に言われて案内しただけで、自分の事など直ぐに忘れてしまうかも知れないけれど。





通り過ぎて行く風景の中に、龍麻はバスと同じ方向へと向かう小さな少女を見つけた。
開かない窓にぺたりと顔をくっつけて、龍麻はその少女を目で追い駆ける。

バスは直ぐに、その存在を追い抜いて離れていった。


けれど、少女が顔を上げた時、龍麻ははっきりと目が合った。


気の所為ではない。
思い込みでもない。
外からバスの中がちゃんと見えているかは判らないけれど。

それでも、少女は小さく手を振った。
龍麻が其処にいるのだと、ちゃんと判っていて最後の挨拶をしてくれて。












その時の彼女の笑顔は決して、夏の太陽が見せた、一瞬の陽炎などではなく。


確かに其処に存在する、何よりも眩しい光となって、少年の記憶に焼き付いた。
















大好きなんです、「子供の頃に逢っていた」って話が。
で、成長したら二人とも覚えてないって言うのが(朧に「あんな子いたなぁ」ぐらいで)。

一番書きたかったのは、京子を“男の子”だと思っていて、“女の子”と知ってビックリする龍麻です。
あと、♂設定に負けず劣らずの勢いでケンカする蓬莱寺親子。
うちの父ちゃん、多分京ちゃんの事、娘だと思ってないんじゃないかな……


やっぱりウチの二人の場合、子供でも先に相手を意識するのは、龍麻の方なんですねぇ。