天の塔 : 第二節 夢を見ることが増えた。 夢を覚えていることが増えた。 同じ夢を、繰り返し。 同じ夢を見る度、その情景は京子の脳裏に鮮明に残る。 残った景色を目覚めた後も探していて、結局見付からないのがなんだか嫌だった。 何故この部屋の中に、あの情景がないのかが不思議で仕方がなかった。 窓から見える空は、いつも変わらない。 漆色の夜の中、ぽつりぽつりと白が点在し、それは時折移動するけれど、それだけだ。 京子が夢に見た風景は、いつまで経っても其処に現れては来なかった。 部屋の中は相変わらず色がないし、部屋に来る男の風体もいつも同じで変わらない。 夢に見た形も、色も、目覚めた後に見付ける事は出来なかった。 壁をあちこち触ってみたが、何も変わるものはない。 窓を何度か叩いてみたが、これも何も変わらない。 ベッド、テーブル、椅子、それぞれの下を覗き込んでみた。 テーブルと椅子は勿論、普段は見えないベッドの下にも、探しているものはなかった。 見付からないのに夢は繰り返されて、知らない筈の情景は鮮やかに記憶に焼き付く。 (何処にある?) 夢の景色は、何処にある? 何処を探せば、見付けられる? 見付からないと余計に気になって、京子は部屋の中をぐるぐると歩き回った。 過去に何度も繰り返した動作を、また何度も繰り返して、京子は夢の景色を探した。 閉ざされた狭い世界の中で。 (此処には、ない?) 探しても探しても見付からないから、そういう事になるのだろう。 ならば、何処を探せば見付かるのだろうか。 そもそも、夢に見た景色は現実にあるのだろうか。 部屋の扉を見る。 あれは、この狭い世界を、違う世界へと繋ぐものだ。 此方側から開くことのない、別世界への入り口だ。 あそこを潜れば、あの景色は見付かるのだろうか。 あそこを潜った先の何処かに、探す色はあるのだろうか。 でも、あの扉は京子の意思では開かない。 (アイツが此処に入ってきた時と、出て行く時、開く) 八剣は出入り出来る。 彼が京子を其処に潜らせようとした事はなかったが、彼が通れるのなら、自分も通れるのかも知れない。 今まで、此処にいるのがごく当たり前だと思って、出たいと思った事などなかったけれど―――――今は少し違う。 通れるのかも知れない、もしかしたら。 開くことは出来なくても、開いている時に通ることは出来るかも知れない。 (あの向こう、に、) あるのなら。 もしかしたら、見たいかも知れない。 夢の続きを。 ここしばらく、京子は不思議な行動をする事が増えた。 此処で最初に目覚めてから、随分長い時間此処で彼女は過ごしている。 部屋の中にあるものに変化が訪れた事はなく、故に、この空間の情景は彼女にとっても十分見慣れたものであった筈だ。 今更何かを確認して回るようなものなどない。 だと言うのに、京子は此処しばらく、部屋の中をあちこち見て回っては、叩いたり捲ったり覗き込んだりしている。 まるで何かを探しているようにも見えた。 彼女が探すようなものが、この部屋の中にあっただろうか。 いや、ない筈だ。 此処には何もない。 八剣がそうするように手配した。 彼女の感情を呼び起こす事のないように。 記憶の綻びがあった訳でもないだろう、それならば八剣には察する事が出来る。 京子の表情は、やはり変わることなく虚ろだった。 しかし、部屋のあちこちを動き回るようになってから、何処かで何かが変わり始めている気がする。 この部屋に存在しないものを、京子は知らない筈だ。 此処にないものが存在する事を知っていても、何が存在しないのか彼女は判らない。 だが彼女は確実に、この部屋に存在しないものを探している。 彼女は相変わらず、八剣に話しかけることはないし、八剣が何某か訊ねてみても答えない。 何度か八剣の顔をじっと見つめてくる事はあったが、その唇が音を発する為に開かれる事はなかった。 しばらく見つめてきた後、少し首を傾げて、また何かを探し始めるのが常だ。 何もない部屋で、何も知らない彼女に、物事を教えることが出来るのは八剣だけだ。 八剣以外の者はこの部屋に入ることは赦されていない。 その八剣が教えていないことを、彼女がどうして知ることが出来よう。 微かな変化が生まれたことに、八剣は複雑な心境だった。 また笑うようになるかも知れない。 彼女が探している“何か”を彼女が見つけたら、笑うようになるかも知れない。 そして同時に、また傷付いてしまうのかも知れない――――― 今日もまた、部屋の中で“何か”を探し回る少女を見つめ、繰り返し自問する。 どうしたいのだろう。 自分はどうしたいのだろう。 彼女に、どうなって欲しいのだろう。 (今になって、) 今になって悩むのは、ムシが良すぎやしないか。 だってあの日から、一体どれ程の歳月が流れたと思っているのだ。 取り戻すには遅過ぎるし、犯した罪は重く、取り返しのつかない事をした。 道を選んだ時に覚悟を決めていたのに、今になってぐらついている自分がいる。 虚ろな彼女の瞳を見るのが、日に日に息苦しさを増して行く。 随分長く見ていない彼女の笑顔を、見れなくなった今になって恋しく思う。 彼女の全てを奪った自分が。 考える。 悩む。 悩んで結局、行き着いたのは、 「京ちゃん、」 “何か”を探す少女を諌めるように、名を呼んだ。 止めて欲しい。 探すのも、見つけようとするのも。 そうしてまた傷付いてしまうのなら。 しかし、彼女は振り返らない。 ベッドと壁の隙間を覗き込んで、其処に何もないのを見て、また移動する。 移動する途中で、京子の足がぴたりと止まった。 何かを見つめる少女の視線を追って、その先にあったのは―――――――扉。 じっと見つめて動かない京子の考えを、八剣は想像した。 扉を見つめる理由は何があるのかを。 (駄目、だよ) この狭い世界と、外の世界とを繋ぐ、唯一の扉。 京子は此処から出たいと言った事はなかったし、そんな素振りも見せた事はなかったけれど、あの扉が此処ではない何処かに繋がっていることは、恐らく感じているだろう。 その扉を見つめている理由は、つまり、此処ではない別の場所に興味を示していると言うこと。 色のないこの狭い世界から、出て行こうと考えていると言うこと。 この世界に何もないのは、彼女の感情を呼び起こさない為に、八剣がそうするように仕向けたからだ。 その世界から出て行こうと思うと言うことは、つまり。 「外は危ないから、駄目だよ」 くるりと京子の瞳が此方を向いた。 不思議そうに、ことりと首を傾げる。 そうだ、彼女は“危ない”が何を指し示しているのかも判らないのだ。 此処には何もない、故に危険なものなど何もないから、“危ない”と言う概念が京子には生まれなかった。 何も知らない赤子に、“危ない”と言った所で、“危ない”がなんなのか、判る筈もない。 「外は、痛くて苦しくなるから、出ない方がいい」 小難しい面倒な薀蓄を、彼女は聞いていられる性格ではない。 こうして顔を合わせる度に八剣が話す事でさえ、京子はきっと半分以上聞いていないだろう。 だから判り易い単語だけで告げると、京子は今度は反対側に首を傾げた。 ああ、痛いも苦しいも、今の彼女は判らないのだ。 それらから解放されているのだから。 「京ちゃんは、此処にいるのが良いんだよ」 多分ね。 曖昧なその言葉は、どうにか飲み込んだ。 京子はしばらく立ち尽くし、やがてベッドへ移動した。 シーツに包まって横になる。 八剣の言葉に納得した訳でもないだろうが、今日はもう探し回るのは止めたようだった。 その姿に、僅かに安堵を覚える自分がいる。 とうの昔に空になっていた食器をトレイに乗せて、部屋を出るべく立ち上がる。 その時だった。 「―――――――京ちゃん?」 眠るのだろうとばかり思っていた京子が起き上がった。 呼びかけは聞こえていないようで、部屋の中をきょろきょろと見回す。 どうしたの、と聞こうとして、それは阻まれた。 硝子が割れる甲高い音と共に。 「――――――!」 その音が何であるのか、八剣は知っている。 この狭い世界を外界から隔絶する為の、結界の消失の音。 音が室内から発せられたものでない事に気付いた京子が、ベッドから降りて窓辺に駆け寄った。 其処から見える風景は、肉眼には何も変化を齎していなかったが、恐らく彼女も感じたのだろう。 夜の色が、ほんの僅かに違う色を持って―――――否、取り戻した事に。 窓に触れた京子の手が、小さく握り拳を作る。 何かが、彼女の中で琴線を揺らしていた。 「京ちゃん」 窓辺から離れようとしない彼女を、半ば強引に夜の色から引き離す。 振り返らせて見た少女の瞳は、虚ろな色ではなくなっていた。 京子を引っ張り、ベッドに戻らせる。 「京ちゃん、此処から出たら駄目だよ」 返事がない事は判り切っていたから、八剣は彼女の反応を待たなかった。 それだけを言うと、食器のことなど忘れたまま、部屋を出るべく扉に向かう。 外側からの力によって扉は開けられて、八剣は外へと出た。 扉は直ぐに閉じられる。 だから、気付かなかった。 開いた扉を追い駆けようとした、少女のことを。 この空間は、“天の塔” と呼ばれている。 外側からの見える形状と、内部の構造が、丁度塔の形をしている為だ。 正しくは“天に昇る塔”であるとも言われているが、正否は八剣も知らない。 しかしそう呼ばれても可笑しくはないほどに、この塔の頂上は天に近い場所にあり、外から見れば最高層部分は雲に隠れて伺うことが出来なかった。 京子がいる部屋は、この“天の塔”の高層部分にある。 頂上には届かないが、地上から見て確認できる高さではない。 “天の塔”の存在を知るものは、人間の中には殆どいない。 信仰深い人間などは、時折霞の向こうに塔の影を見ることはあるが、辿り着くことは出来なかった。 何故なら、この“天の塔”は結界によって隠されているからだ。 “天に昇る”程に高さを有していながら人に見付からずにいるのは、その為である。 そしてこの結界は、人の力で破れるものではない。 そう、人の力では破れない。 打ち払うことが出来るのは、人ならざるモノのみ―――――― (――――――――どれだ?) 人ならざるモノは多く存在する。 動物、妖、霊、そして――――――神と神に等しい者。 動物、妖、霊ならば良い。 八剣が出張らなくとも、塔を警護する者達で十分対応できる。 しかし、それ以上の者であったら、八剣とて難しかった。 結界には穴が開いた訳ではない。 壊したのなら、恐らく神か神に等しい者と仕業となる。 長く抜いていない刀を腰に据えて、八剣は一つしかない通路を降りていく。 分かれ道など此処には作られていないから、目的が上にあるのなら、何処かで交わる筈だ。 天に昇りたいだけの者なら、八剣は見逃すつもりだった。 その者が昇れるものであろうと、なかろうと、また天にとって有害であろうと無害であろうと、八剣には興味がない。 据えた刀は退屈だろうが。 八剣にとって何よりも重要であり、深い意味を持つのは、今は虚ろな少女唯一人。 彼女に関わりがない事なら、後はどうでも良かった。 (結界を破ったと言う事は、) 恐らく、彼女に用があるのだろう。 破ると言う強引な手段を使って、彼女に何かを勘付かせようとしているようにも取れる。 そうでなければ、神や神に等しい者であっても、わざわざ結界を破る必要はないだろう。 神は勿論、その神によって祝福を受けた者なら、結界などあって無いようなものなのだ。 結界による抵抗も幻覚の影響もなく、塔に侵入できるはず。 階段を上ってくる気配に、八剣は刀の鍔を鳴らす。 この塔の通路は広い。 刀を振るって、十分に余裕がある。 柄に手を当て、今すぐにでも抜き放てるように構えて、 上って来た人物に、一瞬、瞠目した。 空の夜に近い色。 八剣が毎日見つめ続けた少女とは、正反対の性質を持つ色。 けれども、八剣はその人物をよく知っていた。 彼女程とは言わないが、知ってからの長さを考えればほぼ同じだ。 何故なら、この人物は彼女と同じ位置にいたのだから。 「八剣、君」 緋勇龍麻。 それが、この人物の名前。 眠たそうなと形容しても否定はないだろう瞳で、その少年は八剣を見た。 其処に驚いた色は見られず、寧ろやっぱり――――と言っているようにも思える。 それが判るほどには、互いに長い付き合いだった。 もう何十年、この顔を見ていなかったかは、既に定かではなかったけれど。 「君がいるなら、彼女もいるんだね」 「さあ、どうかな」 「だって、そうでもないと君はきっと此処にいないよ」 言われて、ごもっとも、と八剣は肩を竦める。 そうだ。 彼女がいるから、自分は此処にいる。 でなければ、こんな退屈な場所にいつまでも居る訳がない。 彼女が此処にいて、彼女の傍にいる事を選んだから、如何な歳月が流れようと此処に居た。 虚ろな少女と毎日顔を合わせて、今更のようにジレンマに苛まれながら。 「通してくれる?」 「いいや」 刀の鍔が鳴った。 「確かに、彼女は此処にいる。けれど、通すことは出来ない」 「僕なのに?」 「お前だから、かな。お前に逢ったら、彼女が何を選ぶか、俺には判らない」 此処に留まることを選ぶのなら良い。 けれど、生来の彼女の性格を思えば、今はそれをしていることさえ奇跡に近い。 全てを奪われ、自分自身も失っている今だから、この変化の無い世界にいる事に疑問を覚えない。 だが、目の前の少年に逢ったらどうなるのか、八剣には判らない。 腰を落とし、鞘の中の刀を構える八剣に、龍麻は一つ溜息を吐いた。 「迎えに来ただけなのに」 「だから、尚更通せない」 迎えに来たと言う事は、此処から連れ出すと言う事だ。 此処ではない、何処かへ。 痛みと苦しみの散在する世界へ。 龍麻の、篭手を嵌めた腕が上がる。 龍麻の強さを、八剣は知っている。 そして龍麻も、八剣の剣技を知っている。 此処に上がってくるまでに、この虫も殺さぬ顔をした少年は、警護の兵を負かしてきたのだろう。 殺してはいないだろうが、再び起き上がって追い駆けるには無理がある。 だと言うのに、龍麻の方は傷一つ負うことなく、挙句息を切らせてもいない。 八剣は今まで、この少年と武を交えた事はなかった。 しかし、目の当たりにした事は何度もある。 それでも、譲れなかった。 何が彼女にとって幸せなのか、判らなくても。 手が届く前に、開いた筈の扉はまた閉じられてしまった。 今ならもしかしたら開くかも知れないと奮闘してみたが、やはりビクともしない。 やっぱり駄目か――――と、この時、記憶の始まりまで遡って、初めて落胆と言う感情を覚えた。 外に出たい訳じゃない。 ただ、夢に見た色を見付けたかった。 口に出して言えば同じこととも取れるが、京子にとっては違った。 “外に出ること”と“見つけたいこと”は目的が違う。 “外に出ること”は探す為に通過するだけのもので、其処に京子にとって意義は必要なかった。 けれどもやはり自分は此処から出ることは出来ず、また八剣も「駄目だ」と言った。 (じゃあ、駄目なのか) 跳ね除けるような理由も見付からず、その言葉はストンと京子の胸の内に落ちた。 もやもやとした感覚は、まだ京子の中で燻っている。 探す色を、目覚めている今、見つけたいと思っている。 だけれどあれらは此処にはなくて、ならば外にあるのかも知れないけれど、外には出てはいけないと言われた。 開かない扉の前に立って、京子は考える。 外は危ないから駄目だと、あの男は言った。 痛くて苦しいから、出ない方がいいと言った。 自分は、此処にいればいいんだと言った。 危ないのも、痛いのも苦しいのも、京子にはよく判らない。 それが何を示しているものなのかも、判然としない。 だから今の彼女の中には、危ないだとか、痛いとか苦しいとかはどうでも良くて、ただ見つけたい気持ちで一杯だった。 (駄目、なのか) 見たいと思っちゃ駄目なのか。 探してみたいと思っちゃ駄目なのか。 此処にない色を、見てみたいと思う事は、駄目なのか。 駄目だと言うなら、駄目なんだろう。 でも、見たい。 夢じゃなくて、目覚めている今、見たい。 ――――――京子は、遠い日に此処で目覚めてから、初めて何かを強く望んでいた。 扉をもう一度押してみる。 動かない。 叩いてみる。 何も変わらなかった。 内側からの力では、決して開かれることのない扉。 判り切っているのに、京子は何度も扉を叩いた。 そうして、どれ程同じ動作を繰り返したか、判らなくなって来た頃に、 「京、」 扉の向こうから聞こえた声は、聞き慣れた男の声ではなく。 彼よりも幾らか幼い印象のする、何処か柔らかな声。 (誰、だ?) 扉を叩くのを止めて、京子はまた立ち尽くし、扉をじっと見つめた。 正しくは、その向こうに居るだろう誰かを。 「京、其処にいる?」 きょう、って、なんだ。 判らなくて、京子は首を傾げた。 顔の見えない相手はそんな彼女に構わずに、良かった、其処にいる、と呟く。 見えていないのに、返事もしていなのに、何故自分の事が判るのだろう。 そもそも“きょう”と言うのが何を示しているのか判らずに、返事さえしていないのに、どうしてその“きょう”が京子であると相手は確信しているのだろうか。 疑問を抱えて立ち尽くす京子の前で、扉がガタガタと揺れた。 この扉は、内側からは開かないけれど、外側からはいつも開けられる。 開くかも知れない、と思って京子は待った。 しかし扉は結局開かずに、暫くの間、ガタガタと煩い音を立てるだけだった。 「京、ちょっと離れてて」 言われて、京子は扉から離れた。 反対側にある窓辺まで。 夜の仄かな灯りに照らされた部屋の中が、ぐるりと見渡せる。 そして、数瞬の間を置いてから、扉の方から派手な衝突音が続き―――――――弾けるような音を立てて、それは周囲の壁諸共に吹き飛んだ。 爆風にも似た衝撃が、ビリビリと空気を振動させ、京子の肌に当たる。 庇うように顔の前で腕を重ねて、京子は振動が収まるのを待つ以外なかった。 やがて風が消え、辺りをもうもうと埃煙が舞ってから。 その向こうから、少年は現れて、 「やっと見付けた、京」 ふわりと、嬉しそうに微笑んだ。 第三節 ああああこの八剣じれってぇええええ……!! ずっとこんな調子ですよ、多分。中盤まで。それも遠いな。 龍麻vs八剣のバトルシーンはカット。…終わらなくなっちゃうから。 |