ふわりふわりと浮かんで消える それは霞か雲に似て 掴めば消える束の間の幻想 浮かび消えた残像を 例えば捉まえることが出来たなら その夢は、どんな色を放つだろう 夢路の翳 : 第一節 手が冷たい。 腕が動かない。 頭が痛い。 腹の中がぐるぐるする。 足の先の感覚がない。 歩いていると足の裏で色んなものを感じていたのに、それがない。 動いているのも判らないくらい、其処に何もないかのようだった。 その感覚がない場所が、段々と増えて行く。 冷たくなった手が、動かない腕が、そう思うことさえなくなる程、存在しないかのように感覚を失っていく。 今の状態になる前に、龍麻に手を引っ張られた。 それは見えたから、間違いはないと思う。 でも、引っ張られている手は自分のものではないような気がした。 少し前まで足の裏でざらざらとしたものを感じていたのに、今は感じられない。 そんな事は記憶の始まりまで遡っても思ったことがなかった。 あの小さな色のない世界でも、歩けば足の裏は触れている平らな床を感じていたし、ベッドの上で丸くなっていれば柔らかな布地が触れていたし、椅子に座って足をぶらぶらさせていた時は、足の裏には何も触れた感覚はなかった。 今は、“触れていない”感覚もしない。 ただ、何も感じられない。 なんだろう。 この、“感じない”感覚は。 よく判らなくて、ただ無性に体の中が冷えていくような気がした。 その感覚が、良いものか良くないものかも判らない。 八剣に聞いたら教えてくれるかも知れない、京子に“京子”を教えたのは彼だったし、外は痛くて苦しいんだと言ったのも彼だった。 これが“痛くて苦しい”と言うのだろうか、だとするなら自分はどうすれば良いのだろう。 ああ、でもその前に────さっきから彼は黙ったままで何も言わない。 大きく踊り全てを飲み込む赤い光を見た後から、八剣はただ「ごめんね」とだけ繰り返して、他は言わなくなってしまった。 記憶の始まりから何かと喋って京子に話し掛けてきた八剣。 「ごめんね」を繰り返している時にちらりと見えた顔は、なんだか酷く変な顔だった気がする。 じゃあ、龍麻だろうか。 八剣が教えてくれない事は、龍麻が教えてくれていた。 でも、何をどう聞けば良いのだろう。 “感じない”感覚を表現する言葉を、京子は持ち得ていない。 指し示す明確な物が見付からなかった。 そのまま亡羊としていたら、投げ出していた手に何かが落ちてきた。 その時、京子は数分振りに“手”の感覚を認識した。 落ちてきたものを何だろうと思っていたら、龍麻が握れと言った。 顔を上げて自分の手を見れば、奇妙な形をした石があって、龍麻はそれを握れと言うのだ。 よく判らなかったが、取り敢えず、手の中に落ちてきたものと一緒に指を折って手を閉じた。 ふわり、温かいものが流れ込んできたのはその時だ。 柔らかに光った石は、なんだか龍麻と似ていた。 初めて龍麻と会った時の印象と同じ感覚がしたのだ。 だからなのか違うのかは判らないが、それを握っていると、冷えた体が少し温かくなるような気がした。 手放したらまた冷たくなってしまうような気がして、それはなんだか嫌だった。 もう少しだけ握っていたくて、龍麻にそれを言おうとしたら、先に龍麻から持っていてと言われた。 手繰り寄せて、両手で包むように握る。 そのまま丸くなっていたら体の上に布が被さった。 それからしばらく、京子の意識は夢と現の狭間でゆらりゆらりと揺れていた。 ひたり、と足が真っ白な地面についた。 ついてから、足がある、と随分久しぶりに京子は自覚した。 それから、立っている、と言う感覚を感じた。 “何もない”感覚は其処にはなく、手もちゃんとあるし、腕もある。 なくなったものと言えば、腹がぐるぐるとしていたものだけだった。 自分の体に欠損が無いことを確認して───眺めて───、次に京子は辺りを見回した。 京子が立っていたのは、何処までも何処までも続く、果ての無い空間の中。 ぽつんと存在している京子の周囲は、何処かふわりとした空気が漂い、現実味がない。 一歩進むと、下ろした足の下でふわりと白いものが舞い上がった。 煙か湯気に似たそれは、京子が少し足を動かす度にゆらゆら浮かんでは形を変える。 それが妙に可笑しく思えて、京子はその場で何度も足を浮かせては下ろし、下ろしては浮かすを繰り返した。 京子は、この不可思議な空間に自分一人がいる事に、疑問を持っていなかった。 いや、それよりも何よりも、此処が不可思議な空間であると言う事が判らない。 そして現実味が欠けている世界を抵抗無く受け入れた事で、彼女自身もまた、現実味から離れていたのである。 足元の煙で遊ぶ京子の表情は、新しい玩具を貰った幼子のようだ。 初めて見付け、感じるものは、今の京子にとって全てが大きな刺激物になる。 自分が見知らぬ場所にいる事よりも、傍に誰もいない事よりも、京子にとっては足元の初めて見つけたふわふわの方が気になるもので、それ以外の事は全く目に入らなかった。 ────けれども、しばらく一人でそうしていると、流石に飽きてきた。 足元のそれを蹴っても、そろそろ代わり映えのする変化が見られなくなった頃。 京子は足を浮かばせるのを止めて、両足で現実味の無い地面を踏み、頭を掻いた。 (なんでェ? ここ) 目が覚めたら見知らぬ場所にいる、と言う経験は、これで二度目だ。 一度目は自分の記憶の始まりで、あの小さな世界。 辺りを見回せば直ぐに終わりの見える世界で、其処にはテーブルと椅子とベッドと、窓と小さな空が存在していた。 だが此処はそれとは全く正反対で、何処までも同じ景色が続き、終わる場所がない。 歩けば何処までも進む事が出来て、小さな枠もなく、上を見れば京子がいつも見ていた夜の空とは違う色の空がある。 この時になってようやく、京子は自分が一人で此処に存在している事に気付いた。 「龍麻」 呼んでみる。 呼べば龍麻はいつも答えてくれたからだ。 だが、答えがない。 ないと言う事は、彼は此処にいないのだろう。 いれば答えてくれる筈だから。 「八剣」 もう一人、呼んでみる。 彼も呼べばいつも答えてくれた。 だが、これも答えがない。 龍麻はともかく、八剣も此処にいないのは、なんだか妙な感じがした。 だって彼は京子の記憶の始まりから、ずっと京子の傍らに存在していたのだ。 あの小さな世界にいた時も、京子は八剣を呼んだ事はなかったが、いつも開かない扉の向こうで彼は存在していた筈だ。 筈と言うだけで確証も何も無いのだけれど、京子にとってはそんな感覚が当たり前にあった。 それが此処にはいないのが、京子は酷く不思議だった。 どうしていないんだろう────そう、思う程度には。 「龍麻。八剣」 繰り返し呼んでみるが、声が返って来る事は無かった。 しん、と静まり返った空間に、京子はまた頭を掻く。 ふわふわで遊ぶのも飽きたし。 龍麻と八剣はいないし。 一人ぽつんと立っている今、京子は何をして良いのか判らない。 何をしたいと思う訳でもなく、この空間が何であるのか知りたいとも思っていなかった。 思った所で、その為に何をすべきなのかが京子にはまるで理解出来ないのだ。 取り敢えず、ずっと立っているので、座ってみる。 足元を浮いていたふわふわが、京子の胸の高さでふわふわするようになった。 手でふわふわを掴んでみようとしてみるが、捕まえたと思って開いてみると、其処には何も存在していない。 ふわふわと浮かぶそれが気体であるから掴めないのだと、物理的に無理なのだと言う事を、京子は知らない。 でも捕まえたと思った瞬間の感覚がないから、それはつまらなくて、直ぐに捕まえるのは止めた。 ─────一体この世界はなんなのだろう。 小さな世界とも違うし、外の世界とも違う。 龍麻もいないし、八剣もいないし、月も星も夜もない。 龍麻と八剣がいれば、きっと教えてくれるのに。 二人が此処にいない以上、京子に何かを教えてくれる人は誰も、 『夢だよ』 いない────と思った直後。 聞いた事のない声に、京子は顔を上げた。 正面を見て、その時初めて、京子は自分以外がこの空間に存在していた事を知る。 其処にいたのは、見た事のない一人の少年。 顔立ちは龍麻に似ていたが、龍麻のように夜や月のような印象は受けなかった。 髪の色は龍麻のような夜の色ではなく、八剣に近いように見えたが、それとも違う。 八剣よりももう少しはっきりした色だった。 京子が立ち上がると、目の高さは京子よりも少し低い位置にあった。 アン子と同じ位だろうか。 表情もまた龍麻と似ている所があるのだが、やはり龍麻と同じ印象にはならない。 龍麻のふわふわとした笑みは、淡い光を放つ月とよく似ているのだが、少年の表情はそれとは異なっていた。 どちらかと言うと、月のない日の夜に似ている。 「なんだ? お前」 少年の黒々とした瞳を見詰めて、京子は問うた。 それを真っ直ぐと受け止めて、少年はくすりと笑みを漏らし、 「覚えてる?」 「……?」 眉尻を下げて告げられた言葉に、京子はことりと首を傾げる。 同じ台詞を前にも聞いた気がする。 いや、気がするじゃない、聞いたのだ。 いつだったっけ─────? 「いいんだ。判ってたから」 そう言って、少年が手を伸ばして来た。 京子はなんとなく、向かってくる手をじっと見る。 大きさは龍麻と同じくらいで、指の細さは龍麻や八剣よりも細く、アン子よりは太い。 傷も痣もない手で、しかしそれが頬に触れた途端、京子は冷たさで肩が跳ねた。 両の頬が少年の手で包まれる。 「此処は、君の夢の中だよ」 「夢の中?」 夢────は知っている。 京子が外へ出ようと思った切っ掛けは、それだから。 でも、夢の中に自分が、それもはっきりとした意識の中で存在しているのは初めてだ。 京子が初めてはっきりと夢の形を覚えてからも、何度か夢と呼ばれるだろうものは見たけれど、こんなにはっきりと感覚のある夢はなかったように思う。 だから京子は、目の前の少年が教えてくれた「夢の中」と言う言葉に、ことりと首を傾げる。 「大丈夫。此処は怖い所じゃないから」 京子の顔をじっと見詰める、真っ黒な瞳。 こんなにも黒だけに塗られた色を、京子は初めて見た。 少年はじっと京子を見据え、困ったように眉尻を下げる。 「駄目じゃないか。塔を出たりしたら」 「とう?」 とうってなんだ。 京子のいた小さな世界の事だろうか。 覗き込んでくる少年を見詰め返す。 「君はあそこにいなくちゃ」 「なんでだ」 「だって外は危ないもの」 八剣と似たような事を言っている。 彼も外に出たら駄目だと言って、外は痛くて苦しくなるから出ない方が良いと言った。 思い出して、どうしてだろう、と京子は思う。 外には小さな世界にはない沢山のものがあって、腹の中がぐるぐるしたり、頭がずきずきしたりする事もあって、それは確かに嫌なものだったように今ならなんとなく感じることが出来るのだけど。 外に出て見つけたものの中には、ふわふわと胸の中が温かくなるようなものがあって、月の光や焚き火はなんだか凄く居心地が良かったのに。 あの月の光や焚き火も、ふわふわと胸の中が温かくなる感覚も、危ないものだったんだろうか。 でも龍麻や八剣はそんな事は言わなかったし、京子が聞けば教えてくれて、京子は兎にも触った。 触っていいと言ったのは龍麻で、八剣は止めなかったのに。 あの柔らかくて小さい兎も、危ないものなんだろうか。 「だから帰ろう」 「かえる?」 「塔に帰ろう。君はあそこにいなくちゃ」 頬から手が離れて、少年の手が京子のそれと絡んだ。 やっぱり冷たい手だ。 ……冷たい手があるんだと言う事を、京子は初めて知った。 外の世界に出て暫くした後、気持ちの悪い手は感じた。 森の中で出逢った野盗が触れて来た手やぬるりとした舌は、気持ち悪い以外の何者でもなかった。 あれも龍麻や八剣と比べれば冷たいものではあったけれど─────この手は違う。 熱が、ない。 「帰ろう」 「………かえる……」 かえる。 帰る。 意味は判った─────けれど理由が判らない。 「なんでだ」 問いかけた京子を、少年は双眸を細めて見詰める。 その瞳に、握られた手と同じ冷たさを感じて、京子は眉根を寄せた。 熱がない。 触られているのは判るのに、熱いも温かいと思うものが何もない。 「……知りたい?」 少年の言葉は、京子の問いに対してのもの。 知りたいか、知りたくないか。 京子にはよく判らない。 疑問に思うことと、知りたいと思うことは、京子にとって別の認識になっていた。 首を傾げる京子に、少年は柔らかく微笑む。 「知りたいのなら、帰って来て」 「………」 「そうしたら教えてあげるから」 そう言って、少年はまた京子の手を引いた。 歩き出す少年に倣って、京子も歩き出す。 いや、違う。 歩き出した京子の足に自分自身の意思はなく、ただ少年が促すままに動いているだけ。 ゆらりゆらりと足元で揺れるふわふわが、まるで操作しているような感覚。 京子は、それに身を委ねることに、特に抵抗感を感じてはいなかった。 けれど。 ─────自分の手を引く、この冷たい手を、拒まないままでいたら。 この夢が終わった時、あの小さな世界の中に自分は存在しているような気がする。 龍麻はあそこにいなかった。 八剣はあそこにいたけれど、目が覚めたら今度はいない気がする。 どうしてそう思うのか、今の京子には判らないけれど、そう思った。 そして、もう二度と外の世界を見る事は出来なくなる。 ………まだ、あの色を見つけていないのに。 京子は、引く手を払うことはしなかった。 代わりに、進む足の動きが鈍くなる。 立ち止まりはしないものの、速度の落ちた京子を不思議に思ったのだろう。 少年が立ち止まり振り返る。 「どうしたの?」 「…………」 何故立ち止まったのか。 判る。 「………いやだ」 ────帰りたくない。 ──────あの小さな世界に。 「帰らねェ。オレは此処にいる」 夢路の翳 : 第二節 前話を書いてから、随分間が開いての執筆…… 世界観を若干忘れかけると言うトンデモ状態になってしまいました(滝汗)。 登場した少年は彼です。 元はと言えば、彼と京子を絡ませたくて、こんなスケールのでっかいパラレルを考えてしまったんですねぇ… |