触れてはならないものがある

だから、気付かぬ振りをして


























Dropping drop



























日曜日の午後。
『女優』を出て何をするでもなく、ブラブラと街を歩き回る。

空いていた腹を満たしてしまえば、後は特に何もする事がない。
けれども、何故だか『女優』に戻る気はなく、友人たちを呼び出すような事もせず、ただ一人で歩いている。
雑踏の中を行き交う群集の中、何処を目指すでもなく。



コンビニで売っている漫画雑誌は、最近は紐やビニールで括られて、立ち読み出来なくなってきた。

生活に余分な金銭を持っていない京子にとって、これは由々しき事態である。
クラスメイトが学校に持ち込んできたりしない限り、気になる展開も判らず仕舞いで心持が悪い。
単行本が発売するまで、週刊誌の早いペースで二ヶ月から三ヶ月、月間ならば早くても半年。
その間、心持の悪さを延々持ち続けるのは、精神衛生上宜しくない。

それに、暇潰しとして最も手っ取り早く安価な方法であったのだ。
100円単位のジュース一本だけを後で買うことにして、時間まで立ち読みして過ごす。
コンビニ内は冷暖房も効いて快適な空間で、これほど効率の良い暇潰しはなかったと言うのに。


喫茶店に入ればコーヒー代、ジュース代、食事代で、少なくとも100円前後では済まされない。
大抵がラーメン屋などで腹を満たした後だから、お得なセットメニューも頼む気にはならない。
空腹で入ったら、それはそれで、軽食メニューなどで京子の腹は満たされない。

行きつけのラーメン屋に一人で延々滞在する気にもならなかった。
コニーやマリィと話をする(マリィの場合は、彼女が一方的に何事か言ってくる)事もあるが、それも然程長くはない。
コニーは店主としての仕事が色々あるのだから、いつまでも京子に構ってはいられないし、マリィの世話もあるし。
マリィはマリィで、妙に京子に対抗意識を持っているようで、何かと噛み付いてきて京子の方が落ち着けない。

電気店のショーウィンドウのテレビを見ているのも良いが、棒立ちになってしまうのが辛い。
寒空の下で運動をせずにいる程、外気が身にしみるものはないと思う。


駅前地下道に下りてみれば寒さはある程度逃れられるが、何せ都心の駅前の地下道である。
混雑しているのは当たり前で、長時間其処にいられる程京子の忍耐力は長く続かない。




そうして街を歩き回って、ふと見覚えのある光景に、京子は足を止めた。


―――――見覚えも何も、歩き慣れた道だ。
だから今更思い出さなくても、広がる風景は京子の記憶に古いものから新しいものまで刻まれている。

それを改まったように、見覚えがあると思ったのは、何故だろうか。







(………あいつと歩いた)







ここ数日で一番の事件と言ったら、やはりそれしか浮かばない。


この道は、数日前に、あの男と歩いた道だ。
京子の意に反した形で、けれど強引ではない誘い方で。

このまま真っ直ぐ進んで行けば、ゲームセンターが見えてくる。
あの時渡されたキーホルダーは、学校の鞄の中にまだ転がっていた。
日の目をみなくなったキーホルダーだが、何故か捨てる気にはならなかった。
…プリクラは捨てたけど。



ぐるりと辺りを見回して、右側の建物に京子の目が留まった。
其処にあったのは、艶やかな色の着物。





なんとなく足が向いて、ウィンドウの前に立った。






(……似合わねェだろ、こんなもん。阿呆じゃねえか、あいつ)






京子にどの柄が、どの色が似合うか、そんな事を聞いてきた男。

紅が良いと言って、紅布に金糸の桜模様の着物を最初に示して来た。
こいつはオレにどんなイメージ持ってんだ、と思って顔を顰めていたら、別の着物を指差した。
漆の布地に、袂と裾に紅色と紅椿、肩口に白桜の着物だった。

今も飾られているそれを見ても、これを自分が着ると言う想像は全く出来ない。






(あの野郎が着た方が違和感ねェんじゃねえか)






考えて、また顔を顰める。
頭の中で出来た女装姿の八剣が、自分に向かって「似合うかな?」なんて言うのが想像できたからだ。

莫迦莫迦しい事を考えたと、自分の思考回路に溜息を吐く。



分けられたもう一つのウィンドウを見ると、其処にも、以前見た着物が飾られていた。
唐紅の布地に、鳶色の帯、長身の男性用に作られている単衣である。







(…………なんか、)







頭の中に浮かんで来たのは、数日前と同じ顔。
見なくなって数年が経つのに、未だに薄れぬ、あの面影。

ビッグママやアンジーが、時々京子と似ている、なんて事を言うからだろうか。
鏡を見て、こんな顔だっただろうかと考えることも、年に数回程度あった。
そうして思い出した顔が、自分と似ているか否かは、結局よく判らない。


………あの男が着ていた、唐紅の色。







(着物、好きじゃねえな)







思い返していけば、着物を着た人間に対して、京子はあまり良い思い出がなかった。



最初は父だ。
父もよく着流しを着ていて、腰に木刀を挿していた。

次が、今は何処にいるかも判らぬ剣の師。
時代錯誤でないかと思うような髪型と着物だった。
それがまた似合っていて、京子はあの男が着物以外を着る所が想像できない。


思い出したくない思い出とは違う。
忘れたい訳でもない。
だが、笑って話せるような記憶でもなく、出来れば振り返りたくなかった。



そして三人目。
八剣右近。

師を除いて、初めて負けた。
同じ“剣”で、完膚なきまで負けた。







(……嫌い、…じゃ、ねえと……思う、けど)







嫌いじゃないなら、何になるのだろうか。
好きではない事だけは確かだ。



――――――どうしてあの日、此処に近付く事を赦してしまったのだろうか。
嫌だと言えば、あの男は結局京子の意に沿うから、この唐紅を見つける事もなかったのに。

そして今日、どうしてまた此処に来てしまったのだろうか。




手を伸ばしてみれば、冷たいガラスに阻まれて、それ以上先に進めない。
唐紅に手が届く訳もなく、判っていながら、何故だか指の先が痛くなる。
それは冷えたガラスの所為だけではないだろう。

離せばいいのに離せなくて、指先から手のひらから、体温が下がって行くような気がした。
それが遠い日の記憶に似ていて、京子は無性に泣きたくなった。


………唯一残された太刀袋を、探し出して掴み取った時のように。








立ち尽くしたまま、唐紅の着物を見上げて、京子は白い息を吐く。

――――――その瞳が見つめているのは、目の前にあるものではなかった。

















































数日前に一人の少女と歩いた道を、八剣右近は逆方向へと歩いていた。
用事は特になくて、気が向いたからなんとなく、と言った所だ。

後々、この時もしかしたら、あの少女の顔を捜していたのかも知れないと思う。




数日前に彼女と二人で入ったゲームセンターは、休日の学生の溜まり場になっていた。


クレーンゲームに夢中になっている女子高生が高い声を上げ、あれらは彼女と同年なのだなとふと思う。
けれども、数日前に運良く取れたキーホルダーを渡した時、彼女は喜んだ顔一つしなかった。
だが突き返されることはなく、なんの気紛れか判らないが、鞄にそれを引っ掛けてくれて。
それが内心、どれだけ嬉しかったか事か。

その後のプリクラでは、すっかり彼女の不興を買った自覚があった。
あのプリクラはもう彼女の手元にないだろう事も、簡単に予想できて、そんなものだろうなとも思った。
彼女にとって、自分は決して良い認識ではないだろうと判っているから。





そのまま道を真っ直ぐに歩き、ふと。
よく見落とさなかったと褒められても可笑しくない場所に、八剣は見付けた。

………数日前にも立ち寄った呉服屋のウィンドウの前に立ち尽くす少女を。



数日前には近付く事すら渋々と言う表情をしていた筈だ。
あの時に何か気になるものでも見つけて、それをまた見に来たのだろうか。



見付けてしまえば声をかけるのが、もう習慣になっていた。
彼女にどんなに眉根を寄せられても、まるで気にならない。
此方から声をかけなければ、彼女は決して此方を見ようとしないのだから。

だから足が方向を変えたのは、八剣にとってごく当然の流れだった。
特に急ぐ用事がある訳でもない、どちらかと言えば持て余していた程だから、足が向かない訳がなかった。



何より、八剣が思い出したのは、前回顔を合わせた時の事だ。

厳つい顔つきの男達に囲まれていた彼女の姿は、忘れられる訳がない。
勿論、彼女がそれを意とも簡単に負かしてしまった事も忘れてはいないけれど―――――彼女が有り得ないと言い切る“万が一”が絶対ないとは、八剣には言い切れなかった。



………だって彼女は、“女”だから。







「京ちゃん」







あまり見慣れぬ私服姿の京子に、躊躇わず声をかけた。
直ぐにあの言葉が返ってくることを予想して。









しかし、予想に反して、返ってきたのは沈黙だけで。









ほぼ条件反射のように返していた台詞が、ない。
これに違和感を覚えない訳もなく、八剣はいぶかしんで、京子の隣に立った。

其処でようやく、京子が顔を上げる。






「……お前ェか」






何処か気のない確認の言葉はぼんやりとして、彼女の瞳もそれに見合うように亡羊としていた。

その理由を問うた所で、答えが返ってくる程自分は信用されていない。
クラスメイトであっても早々答えないだろうから、八剣は気付かない振りを選んだ。






「珍しいね、京ちゃんがこんな所にいるのは」
「……ん」
「気になったの? この着物」






京子が見ているのは、唐紅の男性用の着物。
数日前にも、同じように此処に飾ってあったものだった。


それを見た瞬間の彼女の顔も、八剣は覚えている。





何かが彼女の琴線に触れていた。


ウィンドウのガラスに触れた手が、それを暗示している。
手を伸ばしたくても届かない、判っていても伸ばさずにはいられない――――そんな意識。

また着物を見つめる京子の瞳は、目の前のそれを見ているようで、見ていない。
その眼差しが捜し求めているのは、きっと此処には存在しない何かなのだ。
そして、それが容易く見付からない事を彼女は知っていて、ほんの少し諦めが交じった色をして。



見えない何かを見つめる彼女は、数日前に厳つい男に囲まれた時の鋭さなど微塵もない。
まるで迷子になった子供のような寂しささえも感じられる。





八剣が手を伸ばせば、その仕種はウィンドウガラスにはっきりと映り込んでいた。
だから京子も、八剣の動きは見えている筈だ。

しかし、払われるだろうとばかり思っていた手は、そのまま京子の髪に触れた。






(……何を見てるの?)






何をそんなに追い駆けようとしているのか。
訊きたくても、きっと京子は答えない。


初めて触れた時と同じように、京子の髪は傷んでいる。

その傷んでいる髪を手櫛で梳くと、京子の瞳が此方を見た。
怒るかと思ったが、結局京子は何も言わず、また着物に視線を戻す。






「風邪引くよ」
「………」
「身体は大事にね」






ぽんと頭に軽く手を置いて、直ぐに離す。
京子の目は、もう八剣を見なかった。

八剣もそれ以上彼女の隣にいるのを止めて、踵を返す。








本音を言えば、心配だ。
このまま、今の彼女を一人にしている方が“万が一”が起こり兼ねない。

けれど、彼女の意識が現実に還って来たら、きっと傍に八剣がいる事を嫌がるだろう。
見られたくない所を見られたとか、心配で傍にいたなんて言ったら彼女はまた八剣を敬遠するに違いない。
今でさえ遠い距離が、また遠くなってしまうのは嫌だった。






―――――――それに。


泣きそうな顔の彼女を、抱き締めてしまいそうで。
今はまだ赦されていないのに、彼女の奥底まで触れてしまいそうで。

彼女の一番柔らかい部分に触れてしまったら、彼女は此方を見てくれるかも知れない。
でもそれでは京子の一番大切な心を置き去りにさせてしまうような気がした。
弱味を握るのと同じような気がして、それだけはするまいと思う。
















その日、それから後に二人が再び会うことはなかった。





















うちの京子は、ひょっとしたらファザコンかも知れないと最近思うようになって来ました。
でも本当、京ちゃんの周りは着物着てる人ばっかり。