正体の判らない感情は、果たして何処に行くのだろう


























Extending ripple



























威勢の良い声が響く。






京子が入学してから、真神学園剣道部の噂は瞬く間に全国区に広がった。
一年生の頃から群を抜いた腕を持った京子は、大会に出れば負けなしで、団体戦でも華々しく活躍し、部員達を優勝へと導いた。
その結果、以前は殆ど部員のいなかった女子の剣道部の部員はあっと言う間に増え、その波及効果は男子部にも及んでいる。

が、京子の方はそんな事は割りとどうでも良かったりする。

部長に推進されたのは色々と気持ちが良かったので引き受けたが、それでも彼女は基本的に万年幽霊部員だ。
部費や遠征費なんてものも、殆どが副部長に任せ切りで、京子は部長会議の類も一切出席しない。
彼女が部活に顔を出すのは、大会の一週間前に副部長に頭を下げられてか、若しくは自身の気紛れによるものである事が専らであった。


そして、季節は冬。
真神学園の各部の三年生が引退するのは、秋の中頃の事で、現在三年生である彼女も例外なく引退した。

しかし、彼女の剣の腕に惚れ込んだ部員は多く、そんな生徒達に頼まれて、気紛れに京子は剣道部へと顔を出す事がある。
直接指導する事は殆どないが、足元の運びや竹刀を構える時の癖など、やはり彼女の観察眼は他者の遥か上を行く。
いつまでも自分に頼るなと京子は毎回言うのだが、部員達としては中々手放せない逸材であるのだ。
…結局、頼み込まれて絆されて、彼女が赴いてしまうのも理由の一つであるが。





剣道部と柔道部、空手部が共同で使用している、真神学園敷地内の武道館。
今日は柔道部の部活がない為に、少し広いスペースを使うことが出来、常よりも多い人数がそれぞれ向かい合い、打ち合っていた。


その様子を、京子は壁に寄りかかり、床に座して、ぼんやりと眺めていて。







(…………昨日、)







眺めているだけで、考えていることは部活とは全く関係のないものである。







(……なんか、)







ぼんやりとした思考回路の中、浮かんでくるのは一つの顔。
はっきりとした表情までは、何故かこの時ぼやけていたが、それが誰であるかは明確に理解できていた。

…理解した瞬間は、判らずにいれば良かったと心底思った。


それから思い起こされるのは、昨日の自分。
何処で何をしていたのか、それも少しずつ思い出して来て。






(………………)






何処にいて。
何をして。

あの顔を見た時、自分がどうしたのか。




――――――判り易く漏れた大きな溜息に、両隣に座っていた女子部員がぎょっと目を瞠る。
京子にそれは見えていなかった。







(最悪だ………!)







別段、昨日何があった訳でもない。
ないが、京子にとっては思い返せば最低の日であった。


最悪の日と言うのは数日前にもあったが、それとこれとは少し違っている。
数日前のあれは、他者によって引き起こされたものであって、京子はそれに振り回された。

昨日の事は―――――他の何者でもなく、自分自身の行動が奇異であった。
しかも、それを他者に見られており、挙句“他者”が示す人物があの男である事が最も京子の頭を痛くさせている。
あそこにいるのが龍麻達クラスメイトであったら、先ずあんな行動を取ってはいなかっただろうに。



いや、それ以前に、








(あいつと会う日は、毎回ロクでもねェ事ばっかりだ!)








この時、京子にとって八剣は、完全な疫病神扱いとなっていた。


だが、思い返してみればそうなのだ。
最初に会った日も、一週間前も、この前も、昨日も。

その中の一部は、ごく普通(少なくとも、京子にとっては)の日常風景でもあったのだが、その中にあの男の存在があるだけで、完全に悪印象として京子の記憶に刻まれていた。




今の京子は、かなり沈んでいた。
落ち込んでいる訳ではなかったが、常と様子が違うことは誰が見ても明らかな事だった。

そんな彼女に、意を決して声をかけた後輩が二人。






「あの、部長」
「ご教授、お願いして宜しいですか?」






内心でかなり緊張しながら、必至に平静を装って、二人の後輩は京子に指導を頼んだ。

京子は俯けていた顔を挙げ、立っている二人を見上げる。






「もう部長じゃねェだろうが」
「じゃあ、えっと……主将!」
「同じだろ……」






こうして後輩に慕われることは、くすぐったいが、決して嫌な気はしなかった。

元々、半分は煽てられて部長に推薦されたようなものである。
引退して尚頼られるのも、そろそろ自立しろよと思いつつも、こっそり嬉しかったりするのだ。
だから頼まれて気が向けば、引退した今となっても部に顔を出している。


お願いしますと頭を下げる二人に、京子は竹刀を握って立ち上がる。






「お前が先だ。いいな」
「はいッ!」
「お前、審判してろ」
「はいッ」






指示しながら、京子は甲手の紐を締め、面を被る。



喧嘩の時とは違う緊張感が、京子を包む。

あれにルールなどなく、勝負の決め方はもっと単純で、もっと残酷だ。
今から始めるのはスポーツであって、反則と言うものがあり、勝敗の判断の仕方も決まっている。
握る得物はいつも手の中にあるものとは明らかに違い、此処に命のやり取りは存在しない。


それでも、いつも負けるつもりはなかった。
相手が誰であっても、京子は負ける事を自分自身に赦さなかった。









―――――――だから、あの日、あの時、負けた事が、本当は死にたくなるぐらい悔しくて。









(どうだっていいだろ、今は――――そんな事、)






また過ぎった顔を、頭を振って追い出した。


後輩と向かい合い、竹刀を中段に構える。
切っ先は真っ直ぐに相手の喉下に向かい、ぴたりと制止して動かなかった。

乱れのない切っ先と、眼光と。
それらに睨まれた後輩は、息を呑んで佇んでいた。
その空間だけが、酷く異質なもののように見えて。






(どうだっていいんだ、)






先に動いたのは、京子だった。
中段から上段へ構えを替えると、半歩、摺り足で出る。

揺るがない姿勢と、真っ直ぐに向けられる眼差しは、相手を強く威圧する。


一気に距離をつめて、振り下ろす。
相手の竹刀が受け止めるのに合わせて剣を流し、胴を狙った。







「胴、一本!」







あっと言う間に決着が付いて、周囲からは感歎の声が漏れる。







「最初っから負けが決まってるようなモンだな。ビビってんのが誰にでも判る」
「はい」
「嘘でもいいから声出せ。―――――次!」
「はいッ」






審判として待機していた後輩が、交代で京子と向かい合う。
お願いします、と先と同様に頭を下げた。



二人目のこの後輩は、先に比べると迷いがなかった。
ただし動きに無駄が多く、一言でまとめてしまうと、勇み足だ。
姿勢も前に倒れ気味になっている。


踏み出してきた相手の右足の内側に、京子の足が滑り込む。
そのまま掬い上げられて、後輩の体は受身を取れずに床に落ちた。

間を空けず、京子は倒れた後輩の体躯の上に乗り、組討にかかる。
締め上げはしなかったが、それでも放つ威圧感は変わらない。
寧ろ、距離が縮んだ為に、後輩はそれ以上の抵抗を封じられた。






「――――――参りました!」






響いた声に、京子の手が離れる。

面を外していると、ありがとうございました、と後輩が声を張って頭を下げた。
京子は後頭部を掻きながら、後輩に向き直る。






「度胸は認めてやるが、姿勢がなってねェ。背中曲がってんの判るだろうが」
「はいッ」
「動きも無駄が多過ぎる。今日の部活は見学にしろ。他の奴らの動きをよく見てるんだな」
「はいッ」






背を向け、元いた位置に戻ろうとする京子の背に、ありがとうございました、と二人分の声。
特に反応することなく、京子は先刻まで座っていた場所に落ち着こうとしたが、







「お相手してもらえますか? 元主将殿」







呼び止められて振り返ると、後釜を任せた現主将が立っていた。

自分の後釜であるが、京子は、この人物の実力を知らない。
と言うか、どういう人間であるかも、京子はよく判っていなかった。
この人物を現主将に据えたのは前副部長で、その際、京子はやはり我関せずであった。
万年幽霊部員の部長と言う他者にすれば不思議なポジションのまま、京子は引退し、部長の座を譲ったのである。


凛と真っ直ぐに背筋を伸ばした現主将の瞳は、京子から一度も逸らされない。
名前を見れば、顔はどうであったか判らないが、少なくとも見覚えのある漢字が記されていた。

夏の全国大会の団体戦で、京子と前副部長を大将・副将に据えた際、中堅を勤めた部員だった。
確か、この部員は相手の中堅、副将を負かした筈だ。






「一度、お相手して頂きたかったんです。なのに先輩、いつもいらっしゃらなかったから」
「ま、確かにな」
「折角ですから、一度、お願いしたいんです」






お願いします、と。
今日何度目かに頭を下げられて、京子は今日はこれで終わりにするつもりで、現主将の申し出に頷いた。



元主将と現主将の対決とあってか、部員達が一斉に引いて、見学姿勢に移る。
ぐるりと二人の周囲に円を作る形になり、部員達はその一挙手一投足を見逃すまいと見つめる。

剣道部のそれが異様な雰囲気を持っていたからだろうか。
同じく部活中であった空手部員達も動きとめ、遠巻きに様子を見ている。


審判は、現副部長が勤めることになった。






「手加減なしでいいんだな」
「無論です」






ピンと館内の空気が張り詰める。
誰かが息を呑む音さえも、大きな音に聞こえそうなほど、先刻までの賑やかさが嘘のように静寂が落ちた。




京子が部活で本気を出すことは、滅多にない。
理由は二つある。
彼女の実力に並べるものがいない事と、彼女の“本気”が剣道の“本気”ではない為だ。

京子が校内有数の不良生徒である事は、皆周知の事実だ。
吾妻橋達と吊るんで何処かで喧嘩をしている事も知られており、彼女の“本気”はどちらかと言えば其方に属する。
スポーツと違って“なんでもアリ”の勝負に置けるものこそ、彼女の闘争心が頂点に達する時だった。


部活、喧嘩問わずに京子を本気にさせる事が出来る人間は、本当に一握り。
筆頭に上るのが彼女のクラスメイトである緋勇龍麻で、次に醍醐雄矢だ。

それ以外の人間に対して、京子は殆ど本気で相手をする事はない。



それでも、部活の試合の中での“本気”もある。
殆どの生徒は、それを見ることなく負かされる事が多いので、やはりそれも滅多に見られない。


京子の本気が見れる。
そして彼女の後釜を務める形となった現主将の本気も、見れる。

そうあっては、部員達が色めきだってしまうのも無理はなかった。








「一本勝負、始め!」









副部長の声を合図に、現主将が動いた。
突き出した切っ先を半身になって流すと、京子は竹刀を振り上げ、横面目掛けて振り下ろした。
それは相手に当たることなく、篭手によって防がれてしまった。






(強ェ、な)






流石、現主将とでも言うべきか。
しかし、それでも京子は自身の勝利を疑わない。



大会で一度だけ見た、相手の動きを思い出す。


癖は、どんな人間にも一つは必ず存在する。
目の前の相手は、意識してそれを見せまいとしているようだったが、京子には返って目立って見えた。

この人物は、踏み込みが浅い時がある。
攻める手も防御の姿勢も悪くはなかったが、其処だけが技癖として残っている。
他者にすれば微々たるものであったが、その癖を隠し損なった時、自重が浅い分だけ戻りが弱い。







(強ェけど、)







竹刀の打ち合う音が続く。
こうした音が連続で響くのも、部活の時だけだ。


だけどやっぱり、頭の中は現状を冷静に分析していて、








(あいつ程じゃねェんだよな)








胸中でそう呟いて、ふと。



あいつって誰だ。



自分自身に問いかけて、浮かんでくるのは、またあの顔。







(――――当たり前だろ!)






目の前のただの高校生と、あの男を一緒にして、同じレベルになる訳がない。
此処にいるのは何の変哲もない少年少女ばかりなのだ。
あんな職業をしている男とは、そもそも畑も質も違う。

それを一番よく判っているのは、京子だ。
あの男の実力と、その躊躇いのない切っ先を、何よりも京子は体感している。








(――――って、だから!)

(なんであの野郎の事ばっかり――――――)








考えているのか、なんて。
思った瞬間、正面から打突が迫っていることに気付いた。

いつもならば、それにももっと早く気付けるのに。












一瞬、瞼の裏が真っ白に閃いた。










































失態だ。
この上ない失態。

そう思わずにはいられない。


京子の頬には、見るも無残な青痣。
同じような色が腕にもあったが、それは服袖によって隠されていた。




面に守られていた筈の顔面であったが、結びが緩かったか、後輩からの一撃で面が外れてしまった。
情けない(京子にとっては)事に、そのまま吹っ飛んでしまい、床に落ちた時に派手に打った。

思いもよらぬ結果に、現主将の後輩も、審判を勤めていた副部長も大慌てで京子に駆け寄り、謝った。
まさか入るとは思っていなかった一撃で、大会無敗を誇る前主将に勝てるとは思っていなかったのだ。
他の部員達も大わらわになり、後は部活どころではなかった。


何度も謝る後輩達に、京子は自分の注意が散漫になっていただけだと言ったが、やはり後輩達は謝罪を続けた。
其処まで謝られても、返って京子の方が戸惑ってしまうとも知らず。


京子の負けは自分自身の不注意であり、それを突いた相手の実力による、当然の結果。
負けた事に腹立たしさは残ったが、それは相手に対してではなく、注意散漫になった自分に対してだ。

それより、偶然でもなんでも、勝ったんだから喜べばいいものを、と京子は思う。
引退した元主将に、現主将が勝って、誰も文句は言わないだろう。
僅かなブランクが現役生と違いを浮き彫りにさせるのはよくある事だ。





現主将との手合わせの後、京子は武道館を後にし、自分の部活時間を終えた。

その後に保健室に行った方が良いと言われていたが、面倒だったので結局そのまま学校を出て来た。
頬も腕も未だじんじんと鈍い痛みがあったが、我慢できない程ではないし、この程度の怪我なら慣れていた。







(……それより……)







失態の原因を思い出して、京子は右手の木刀をぎゅううと強く握り締めた。


注意散漫になったのは、他の何者でもなく、京子自身の問題だ。
だがその問題の切欠になった人物が、京子の機嫌を更に悪くさせている。







(なんでよりによって!)

(つーか、だから! なんであの野郎の事考えてんだ、オレは!!)







頭から追い出そうと、何度も何度も、頭を振る。
なのに、まるで染み付いてしまったように消えない顔。


部活中にも考えていた。
試合の真っ最中にも考えていた。

それが、この結果。




――――――――いっそ、記憶から抹消できてしまえば良いものを!




意味もなく、道端の石を蹴飛ばして、まるで憎むかのように思う。
そうしている間にも、益々男の顔は明確に思い出せるようになって行く。

―――――悪循環だ。







(最悪だ………)







なんだか最近、同じ言葉ばかりを自分は繰り返していないだろうか。
最悪、最低、そんな単語ばかり。

―――――――だって仕方がないじゃないか、そうとしか思えないんだから。



昨日の事も、その前の事も、そのまた前も。
戻り戻れば、一番最初の時にも。

あの男の記憶は、全部そんな単語ばかりで括られて、その癖色濃く残って薄れない。


刻まれた傷は、腹が立つぐらいに綺麗に消えたのに。




蹴飛ばして転がった石に追いついて、また蹴った。
その石が転がっていくのを視線で追い駆けて。

………京子は、後悔した。









「やぁ、京ちゃん」
「…………」








いつものように笑みを浮かべた、着物姿の男。
よく会うねと笑う男に、京子は胡散臭さを感じていた。

最近、あまりにも会う回数が多くないだろうかと思う。
それも京子が一人でいる時ばかりで、実は何処かその辺で待ち伏せしてるんじゃないかとか。
疑って問い掛けた所で、この男はきっとおどけて誤魔化すだろう。
それが益々持って腹立たしい。



立ち止まって立ち尽くす京子の前に、八剣はやって来て足を止めた。






「よく会うね」
「…………」






黙して睨む京子に、八剣は笑みを見せる。
その表情が何処か安堵しているようで、京子は意味が判らずに眉を潜めた。






「風邪、ひかなかったんだね」
「…………」
「昨日は寒かったから、少し心配していたんだ」






心配。
この男だけが、やたらと言ってくる単語。


八剣がほんの少し背中を丸めると、身長差で見上げていた京子の目線が、いつもの高さに戻った。

真正面からじっと見つめられて、京子は居心地の悪さを覚える。
けれども此方から視線を逸らすのは負けを認めるようで、ぎりぎり歯を鳴らして尚も睨み続ける。






「風邪はひかなかったみたいだけど、」
「………」
「その痣はどうしんだい?」






喧嘩でもした? と八剣が言う。
京子の怪我の大半の理由はそれであるから、八剣でなくとも、そう言っただろう。






「痛くない?」
「……別に」
「痛そうだけどねェ」






これより遥かに痛い傷を負わせたのは、何処のどいつだ。
心の中で毒吐いた。






「部活でドジっただけでェ。なんでもねェや、こんなモン」






黙っているとあれやこれやと言われそうで、京子はさっさと話す事にした。

口に出してしまえば、喧嘩などよりもよっぽど判り易くて単純で、下らない話だった。
怪我の原因が自分の注意不足で、切欠が目の前の男であった事を除けば、だけど。






「部活か。剣道部だったかな」






言った覚えがないのに何故知っているのか。

眉根を寄せた京子だったが、この男が自分の目の前に現れたそもそもの原因を思い出す。
ある程度の情報は、ターゲットのデータとして彼の頭に入っているのだろう。
学生の部活記録が必要データであるか否かは、京子の知る由ではない。






「顔に怪我をするなんて、そんなに激しい部活をしてるのかな」
「別に。普通だ、普通。言っただろうが、ドジっただけでェ」






それもお前の所為で。

言いたかったが、呑み込んだ。
調子に乗った莫迦な台詞が返ってくるのが予想出来た。


大体、剣道部で怪我なんてつきものだろう。
確かに柔道や空手に比べれば防具に守られている分だけ安全だが、摺り足が基本の剣道の動きの所為で、足の裏の皮が剥けるのは初心者にありがちだし、突き指もある。
他にも『不慮の事故』はあるもので、今日の京子のように、うっかり防具が外れてしまって手痛い一撃を貰う事も、決してない訳ではないのだ。

第一、部活に限らず京子に怪我は付き物だ。
そして、過去一番に重傷を負わせた相手から貰う心配の言葉ほど、薄っぺらく感じるものはなく。








「死ぬような怪我じゃあるめェし」








呟いた言葉は、しっかりと八剣にも聞こえていたらしく。
嘗てその傷を負わせた張本人は、僅かに目を伏せたのみだった。






「……だけど、顔に怪我っていうのは…ね」
「あぁ?」






八剣の言葉に、京子は不機嫌に低い声で反応を返す。

そんな京子の頬に、八剣の手が伸びて。












「勿体ないよ。綺麗な顔してるんだから」












細めた瞳のその奥に、不可解な色が見え隠れする。


京子の八剣への苦手意識は、全ては其処から始まっていた。
この男が自分に向けてくるのは明らかに好意と呼べるものであって、だけれど、それは龍麻や葵達のようなものではなく、かと言って『女優』の人々のものとも違う。
当然、吾妻橋達のような舎弟とも違っていて、京子は、この男の持つ色の正体が判らなかった。

正体不明のものに近付く事を躊躇うのは、誰にとっても同じ事だ。
近付いた瞬間に何が起こるか、自分がどんな目に遭うのか予測が立たないから。



他者の好意に慣れていない京子にとって、八剣のこの色は、一種の恐怖感を彼女に抱かせていた。




頬に触れた手は、昨日も京子に触れていた。
それを京子は見なかったが、髪に触れる指先の感触を京子はまだ覚えていた。



あのガラスの前に立ち尽くしていた自分。
その隣に並び、暫くの間傍にいた目の前の男。

情けない姿をした自分の傍に、この男はいた。
そして常なら何某かにつけて纏わり付いて来る筈なのに、昨日に限って京子を一人残して去った。
その意味は、京子にはよく判らなかった。


あの時髪に触れた指も、今頬の痣に触れる手も、それはどちらも同じもので。
見下ろす眼差しには、正体の判らない色が宿る。

それは、好意であって。
だけれど、他の誰とも違う色で。
だからきっと、友愛とか、親愛とかとは、違うもので。









(―――――じゃあ、一体――――――?)















京子の無音の問い掛けに、答えてくれる者などなく。


乾いた音が辺りに響いて、夕映えの空に消えた。
















払い除けたと言うよりも、打ち払ったと言った方が近い。
その証拠に、相手の手を打った自分の手も、じんじんと痛みを覚えている。

でも、それ以上に頭が痛い。


部活の時から、今日の朝から、昨日から。
延々と続く、頭の中に過ぎる影は、どうして消えて行かないのか。

望まないのに何度も何度も顔を合わせて、それが段々と当たり前になりつつあるのは何故なのか。
触れようとする手を、一瞬でも受け入れる形になってしまったのは何故なのか。





昨日。
あの時。

髪に触れた指に、ほんの少しだけ、寂しさが消えたような気がしたのは。
温かさを覚えたような気がしたのは、何故なのか。







(嫌いだ)







判らない事だらけで、頭が痛い。








(だから嫌いだ!)








自分が、知らない自分に作り変えられていくような気がした。
今まで知らなかった部分が、勝手に作り出されて、塗り替えられていくような。

目の前にいる、この男の所為で。



打ち払われた八剣の手は、所在を失くしたように彷徨っている。
京子はそれも見ず、ただ俯いていた。

互いの顔は、互いに見えない。
ただ八剣が京子に対して、非難めいた言葉を向けることだけは、終ぞなく。







(どうしたいんだよ)







この男は、何がしたいのだろう。
自分にばかり構いつけて、一体何が。








(こいつは――――オレを、どうしたいんだよ……!)








心配なんかして。
“女”扱いして。

だけど、今の京子を否定する訳でもなくて。




触れられた頬が、痛みではない熱を持つ。
相手の手を打ち払った手も、その腕の見えない痣も、同じような熱を持ち始めていた。

視界が滲むのはどうしてなのか、何故そんな事になっているのか。





これ以上、此処にいたくない。
この男の傍にいたくない。








「京――――――」
「触んな」







呼びかけた声を遮った。
俯いたままで。


いつものように顔を上げて睨む事が出来ない。
自分が今、どんな顔をしているのか、はっきりとは判らなかったが、それでも人に見せたいものではない。
情けない表情をしている事だけは、確実だと思う。














「もう構うな!!」














それだけ言うのが精一杯だった。

道を塞ぐ八剣を押し退けて、走り出す。
後を追ってくる気配はなく、それがまた余計に京子を混乱させていた。



何がしたいのか判らない。
何が言いたいのか判らない。

どうすればいいのか、判らない。

















相手の感情が見えなくて。

自分が少しずつ作り変えられていくような気がして。
こんなのは自分じゃないと思っても、確実に変革は刻まれていた。





















そろそろ意識し始めたようです(混乱してますが)。

拳武編の時点で、真神の三年生は既に部活引退してますが、引退してからも顔出す先輩っているよなーと言う事で、剣道部に顔出ししてる京子です。
京子がぼーっと考え事して、有り得ない失敗をするのは、多分龍麻達のいない所だと思ったので。
あと、京ちゃんは普段は部活サボってるけど、参加したら案外真面目にやるんじゃないかなーと(気が向いてる間は)。後輩の指導もなんだかんだでやってそう。じゃないと、幾ら実力があっても、万年幽霊部員で部長には推薦されないんじゃないかなぁ。
ちなみに、皆女子部員ですよ。男子部とは別個のつもり。皆の口調が全くそんな感じしませんが。