“判らない”は若しかしたら、“判りたくない”のかも知れない Ripple effect 転がり込むように戻って来た少女に、『女優』の従業員達はしばし目を丸くした。 まるで何かから逃げるように、珍しく肩で息をしながら帰って来た彼女。 伏せられた顔の表情は窺えなかったが、それでも、何かしらの出来事が京子を襲ったことは予想できた。 「お帰りなさい、京ちゃん」 それでも、いつものように迎えの言葉をかける。 京子は少しの間の後で、「……ん」と小さな返事をした。 頬の痣は気になったが、また喧嘩か何かだろう。 彼女のこの程度の怪我はよくある事で、『女優』の面々にとっても見慣れたものだった。 過度の心配を嫌う彼女に何を言うでもなく、ただ後で湿布ぐらいは持っていこうとアンジーは決める。 そんなアンジー達の気遣いに気付く様子もなく、京子は店の奥へと歩いて行く。 何処か覚束ない足取りで。 フラフラと、憔悴しているようにも見える後ろ姿。 良くも悪くも気丈に振舞う彼女が、こんな姿を見せるのは、いつ以来だろう。 キャサリンとサユリが顔を見合わせるが、かけられる言葉は見付からない。 ビッグママは眉根を潜めたが、それだけだった。 「京ちゃん、ご飯は?」 「……いらねェ」 アンジーの問い掛けに、京子は数拍遅れて答える。 食ってきた、とも、まだ腹が減ってない、とも言わなかった。 ただ要らない、とだけ告げて、京子は店の奥へと続く扉を開ける。 どうしたのかしらねェ、と。 閉じた扉の向こうで交わされる会話を、常ならばある程度予想できただろう。 けれども、常とは違う状態にある今の京子に、周囲の目線を気にする余裕はない。 いつも使っている部屋に入って、鞄を投げ出し、靴を脱ぎ散らかして、ベッドに落ちる。 ギシリとスプリングが軋んだ音を立てて京子の行動を非難したような気がした。 (変だ) ベッドに顔を埋めて、京子は痛む頭を抱えた。 無我夢中で走ってきた。 呼吸はもう落ち着いたが、汗はまだ噴出していて止まる様子がない。 喉がカラカラに渇いていたけれど、水分を摂取しようと言う発想が浮かんで来なかった。 ……今はそれより、頭が痛い。 痛い。 苦しい。 訳が判らない。 あの場所から、走って走って、走って。 逃げてるみたいだと思って―――――実際、逃げていた。 あの場所にいた一人の男から、訳の判らない事ばかり言う男から。 そうして一分一秒でも早く離れないと、頭の中が破裂しそうで。 (変だ――――――) 可笑しい。 可笑しすぎる。 こんな自分は可笑しすぎる。 病気なんじゃないかと思う。 だとしたら、こんなに恐ろしい病気はない。 一人の事しか考えられない。 その理由が判らない。 その所為で、自分の中で何かが作り変えられて行くような気がする。 (有り得ねェだろ、そんな事) (だけど、そんな気がしてる) 思ったようにしか、自分と言う存在は変わらない。 ならば、自分は今、何を思っているのか。 変えられていくような気がする。 今までにない方向へ、今まで有り得なかった形へ。 ――――――それが無性に怖くて。 (どうしたって変わらねェのに) (オレはオレで、それ以外のなんでもねェ) (なのに、) のろのろと起き上がってみれば、視界が不自然にぐにゃりと歪んでいた。 状況が理解できずにぱちりと一度瞬きすると、白いシーツに水が落ちて染みを作る。 自分が泣いていることに気付いて、泣いている理由が判らず、頭の中がまた痛くなる。 (………なんだよ、) 何度も何度も浮かんでは消え、消えては浮かぶ、たった一人の男の顔。 飄々とした掴みどころのない態度で、自分を振り回す大嫌いな男。 大嫌いなのに。 ……大嫌いなのに。 (なんでだよ………!) 思い出す瞳の色は、友愛とも親愛とも違う、それでも確かに好意の色で。 それが嫌いなのだ、自分は。 奴はそんな顔をしていつも自分を振り回す。 忘れてしまえばいいのに。 向けられる瞳の奥の色も、触れた手の熱も。 消えてしまえばいいのに。 二度と思い出すことがないように。 そうすれば、何も変わることなんてないのに。 ――――――翌日。 目覚めた瞬間に頭が痛くて、起き上がってもベッドに逆戻りしてしまった。 ガンガンと痛む頭をそのままに、仕方なく京子は落ち着くまでベッドで過ごす事にした。 そうして亡羊としている内に時間は過ぎ、いつもの登校時間になって、アンジーが部屋にやって来た。 いつまで経っても起きて来ない京子を心配したアンジーは、放って置かなくて良かったとしみじみ呟いた。 39度の熱である。 病院に行った方が良いとアンジーは言ったが、京子は嫌がった。 連れて行かれる病院が、十中八九、馴染みの大嫌いな病院である事は間違いない。 どうしたってあそこは京子にとって鬼門であった。 幸い、咳もくしゃみもなく、症状は熱だけ。 走って帰って汗も拭かず、着替えもせずに寝たからだろうとアンジーは言った。 彼女の言葉の信憑性はともかくとして、起き上がれないほどの体調不良には間違いなく、京子は学校を休むのを余儀なくされた。 サボれてラッキーと思いつつ、反面、単位が少々心配であった。 とは言え無理に学校に行けば、後々色んな物事に響くのは間違いないので、大人しく休校する。 熱で学校を休むなんて、どれくらい振りだろう。 しかも、39度の高熱で。 多少体調が悪い時、それ程酷くなくても、京子は授業をサボっていた。 それがなくとも、平時から「腹が痛いから帰る」と授業中に堂々と教室を出て行ったりする京子である。 今更体調不良で休みますなんて言われたって、誰も信じないだろうし、京子自身も信じられなかったりする。 電話向こうで休みの連絡を受けた担任は、ハイハイ、とおざなりな返事をしただけだった。 どうせまた喧嘩だろう、とそんな事を考えられているのは、予想がついた。 それからは、とにかく寝て過ごした。 病院に行かないなら大人しくしているべきだと『女優』の人々に言われたし、何より動ける状態ではない。 制服からパジャマ代わりの体操着に着替えると、京子は夕方まで只管寝るばかりだった。 ……それに。 起きていると、また別の事で頭が痛くなりそうだった。 寝て起きてを繰り返し、アンジーに言われて気乗りしないながらも食事を終えて。 これもやっぱり言われたので、念の為に風邪薬を飲んで。 夕方頃に目を覚ました時には、熱も引いて、随分楽になっていた。 寝すぎて固まった体を伸ばしながら、何時間か振りにベッドを降りて、部屋を出た。 其処で、店の方から聞き慣れた幾つかの声を聞く。 学校はもう放課後の時間になっていて、となれば恐らく、来ているのはいつものメンバーだろう。 店へと続く扉を開ければ、思った通り。 見慣れた顔が揃っていて、半日ぶりに見たクラスメイトの顔に、各々安心したような表情を見せていた。 「元気そうだね」 「まぁなんとかな」 龍麻の言葉に、京子は頭を掻きながら肯定する。 遠野がデジカメを構えて、カシャリとフラッシュが焚かれる。 「その様子だと、本当に風邪だったみたいね。珍しい事もあるもんだわ」 「オレもそう思うぜ」 遠野の言葉に、京子が頷けば、他の面々も揃って頷く。 京子はいつものカウンター席に座った。 テーブルの向こうでグラスを拭いていたビッグママの目が此方を向く。 「気分はどうだい?」 「朝よかマシ」 急に動くと頭の芯がブレるような感覚はあったが、それも然程酷くはない。 アンジーに差し出された体温計で測ってみれば、37度とほぼ微熱になりつつあった。 それを見て、もう大丈夫そうねとアンジーが笑った。 体調が戻れば、次に空腹感がやって来た。 朝も昼も、薬を飲む為だけに気乗りしないまま簡素な食事しかしていなかったから、無理もない。 腹が減ったと呟くと、ビッグママは何も言わずにキッチンに赴いた。 程なく有り付けるだろう夕飯に楽しみを覚えつつ、京子は椅子に座ったまま、未だ固さの残る背筋を伸ばす。 「ずっと寝てたの?」 「ああ」 龍麻の問い掛けに頷く。 それを皮切りにして、葵も問うてくる。 「病院には行ったの?」 「ンな大袈裟なモンでもねェだろ。治ったしよ」 「駄目よ、もっと気をつけなくちゃ。風邪は万病の元なのよ」 「へーへー。わっかりましたー」 「………もう」 おざなりな返事を寄越す京子に、葵は肩を竦める。 言ったところで彼女のこんな反応はいつもの事で、それでも言わずにいられないのは、葵の性分だ。 京子も言われるのは判っているので、一々目くじら立てることなく、この程度の会話で済ませている。 「それにしてもさァ、京子も風邪ひく事があるんだねー」 含みのある言い方をしたのは、小蒔だ。 京子が眉根を寄せて小蒔を睨む。 「バカは風邪ひかないって言うのにさ」 「あんだと、コラ」 「だってそうだろ」 「はッ。ンな迷信信じてる方がバカだろ」 「何を!」 「ンだよ?」 始まった低レベルな口喧嘩を、今更止める者はいない。 醍醐だけが間に立って二人を宥めようとしているが、それも昔のように本気ではない。 元気そうな親友の様子に、龍麻はクスリと笑う。 京子が此処に来るまで、店の中は京子の事で持ちきりだった。 それは体調を崩すという滅多にない出来事から始まり、昨日、此処に帰った時の彼女の様子まで。 龍麻達が学校で彼女と一緒に過ごしていた時分には、常と何も変わりはなかった。 気が向いたら授業に出て、向かなければサボって、大嫌いな生物の課題をギリギリに出して(それもいつもの面々に手伝って貰ってようやく埋めたものである)、それから後輩達に頭を下げられたので、引退した身でありながら剣道部の部活に参加した。 ――――――学校風景は、いつも通りの一日であったと、龍麻は思っている。 だから昨日、京子が『女優』に帰ってきた時に様子が可笑しかったとアンジーに聞かされて、正直驚いた。 熱を出したのも、若しかしたらそれが原因なのかも、とアンジーは言う。 …様子が可笑しかったという、その理由は、自分達にはまるで判らなかったが。 そんな訳で少し気になっていた彼女の様子は、今は普段通り、元気そのもの。 特に何か隠しているようにも見えないから、踏ん切りがついたのか、それとも忘れているだけか―――――何れにしても、蒸し返す必要はないだろうと思う。 「元気そうで良かったわ」 龍麻の隣で葵が呟いた。 うん、と頷くと、葵は微笑む。 その後で、葵は京子をじっと見て、少し首を傾げた。 「美里さん?」 元気そうねと言った後で、どうしたのかと龍麻が問いかけると、葵は直ぐに返事をしなかった。 じっと京子を見つめたまま、考え込むような仕種を見せている。 しばらくすると、京子も向けられる視線に気付いて、小蒔から葵へと視線を移した。 「なんでェ」 「え?」 「何見てんだって聞いてんだよ」 「え、あ。ごめんなさい。ちょっと……」 しどろもどろになる葵に、京子は眉根を寄せる。 言って良いものか―――――葵の仕種は、そんな風にも見えた。 京子がじっと葵を見ているからか、倣うように一同の視線が葵と京子へと向けられる。 数秒経ってから、葵は言った。 「なんだか京子ちゃん、雰囲気変わったような気がして…」 葵の言葉に、京子は小蒔と顔を合わせ、醍醐と遠野も目を合わせる。 「………はぁ?」 「え〜…そうかなァ? ボクにはいつも通りに見えるけど?」 「微熱があるからじゃない?」 思い切り顔を顰めた京子と、そんな京子をじっと見つめて言う小蒔と遠野。 確かに、京子の顔は微熱が未だに残っている所為か、少し赤らんで見える。 雰囲気が違って見えるのも無理はないかも知れない。 しかし、そうじゃなくて、と葵は首を横に振った。 「綺麗になった、みたい」 告げられた言葉に、ぽかんとした空気が室内を包み込む。 それに気付いた葵は直ぐにごめんなさいと謝ったが、それで払拭できる訳もなかった。 暫くの間、店の中には沈黙が続いた。 その内に葵に偏り勝ちだった一同の視線は、京子へと向けられる。 綺麗になった。 綺麗に。 一同の頭の中で、葵の言葉が繰り返し反芻される。 そしてそれを打ち破ったのは、キッチンから戻って来たビッグママだった。 「おや……どうかしたのかい? アンタ達」 はっと全員が我に返る。 京子も同じく、目の前に置かれた食事に、現実に戻ることが出来た。 「バ……ッカな事言ってんじゃねーよッ」 「ごめんなさい。でも、なんだかそう見えて……」 「気の所為だって、葵。やっぱりいつも通りだよ。ね、醍醐君」 「えッ……ええ、そう…ですね。俺にもいつも通りにしか…」 「あたしもー」 「そうかしら……」 仲間たちからの言葉に、葵は龍麻はどうだろうと目を向ける。 無言のままで問う瞳の意味を龍麻はしっかりと理解していて、京子へと目を向けた。 「―――――雰囲気はちょっと変わったかな」 「お前もかよ、龍麻」 「なんとなくだし、気の所為かも知れないけど」 付け加えられた龍麻の言葉に、じゃあ気の所為だろうと京子が言おうとして、 「フフ。京ちゃん、恋でもしたのかしらね」 ぶっ、げほッ。 一日ぶりのまともな食事が、気管に入って、京子は目一杯咳き込んだ。 詰まったものを取り除こうと胸元を叩く京子に、龍麻が無言で水を差し出す。 水を一気に飲み干して、空のグラスが叩きつけられるようにテーブルに置かれ、 「アンジー兄さんッ!!」 「アラ、冗談よ」 「気色悪ィから止めてくれッ」 京ちゃんたらァ、と腰をくねらせながら、アンジーが笑う。 続けてサユリ、キャメロンが笑い出し、小蒔が大きな声で笑い出した。 「あははは! 京子が恋って、それこそないよ!」 腹を抱えて笑う小蒔に、今ばかりは京子も腹が立たない。 自分もそう思っているからだ。 遠野と醍醐が顔を見合わせ、苦笑する。 この二人にも、やはり京子と恋愛が結び付かない。 「もう、小蒔ッ」 「だってさァ、葵〜」 「京子ちゃんだって恋する事もあるわよ。ね、京子ちゃん」 「あ? ………ねーっつの」 「ほらね。本人がこうなんだもん」 笑い続ける小蒔を葵が咎めるが、笑われている当人は全く気にしていない。 それ所か、葵の言う可能性をきっぱりと否定する京子。 京子は一つ溜息を吐いて、下らない話はこれで終わりだと、改めて食事にありついた。 まともな食事を取らずに、一日寝ていた今日。 運動していなくても腹は減っているもので、それが満たされていくのは嬉しかった。 その隣で、龍麻がじっと京子を見つめ、 「でも、やっぱり雰囲気はちょっと変わったよね」 「まだ言うか」 相棒の言葉に、京子は顔を顰める。 「あら、苺ちゃんが言うんだったら、そうなのかもね」 「兄さん達、あんまりコイツの言う事いちいち真に受けねェでくれねーか」 楽しそうに言うアンジーに、京子はがっくりと脱力して呟く。 龍麻の観察眼は京子も舌を巻くものがあるが、時にズレた所を見ていることも多々ある。 だから京子は、龍麻の考えていることが未だによく判らないのだ。 ………こういう時は、特にそう思う。 「何か変わったことあった?」 「ねェよ、ンなモン」 「でも京って鈍いから、自分で気付いてないんじゃない?」 「自分の事にまでンなバカじゃねえよ」 「そうかな?」 「喧嘩売ってんなら買うぞ」 睨みつける京子に、龍麻は表情を変えない。 にこにこと、何処か楽しそうに――――いや、嬉しそうにも見える。 全く、彼の頭は一体どんな構造をしているのか、京子は不思議で仕方がない。 最近、それを気にしているのは、どうやら自分だけになって来ているようだが。 やけに機嫌のいい顔を見ているのがなんだか癪になって来て、京子は意趣返しに一発頭を叩いてやる。 龍麻と京子の遣り取りを眺めていた遠野が、ふと呟いた。 「緋勇君の言う事も一理あるわよね」 京子の鈍さは折り紙つきだ。 剣術や自分の身に危険が及ぶ気配には敏感だが、それ以外は、自身に興味がない事もあるだろう、てんでからきしである。 クラスの男子が自分を見ていても気にしないし、その視線にどんな理由が含まれていようと全く気付かない。 ……色恋沙汰など尚の事。 「京子はさ、どういう時が恋してる時だと思う?」 「ンだよ、いきなり……知らねーよ、そんな事」 初恋だって記憶にない京子だ。 女子のコイバナにもまるで興味がないし、ついて行けない。 一目惚れだの、理想の彼氏がどうだの、京子はまるで理解できない話だった。 そんな京子だから、恋をした時のサインなど自分で把握している訳もなく。 もういい加減にこの話題を終わらせたいのに、何故このメンバーはこうも引き摺るのか。 飯を食ったらさっさと奥に引っ込もう、と京子は考えていた。 それを知る由もなく、女子三人は尚も盛り上がり、 「やっぱりさ、一人の男の人の事がずっと気になるとかじゃないかな」 「うんうん。基本よね。あと、その人の前だと急に緊張するとか」 「ドキドキしたりとかね」 「他の事に手がつけられなくなるのもあるかしら」 「あるある!」 「ちなみにー、桜井ちゃんはそういう事あるの?」 急に遠野から矛先を向けられて、小蒔がきょとんと瞬きをする。 「? なんでボク? 今は京子の話じゃなかったっけ?」 「うん、でも参考にね。ない?」 「んー……ないなァ、ボクは」 少しの間考えて、小蒔はきっぱりと否定した。 その後ろで、醍醐が安心したような寂しいような顔をしている事には気付かないまま。 そんな醍醐の表情に目敏く気付いた京子が、にやにやと悪戯を思いついた子供のような顔をして、 「脈はなくても可能性はあるってェ訳だ。そうだろ? 醍醐」 「お、俺の話は今はいいだろう!」 「くくくッ」 赤くなって抗議する醍醐に、京子は笑う。 その隣で龍麻もまた、頑張ってね、と言って笑った。 他の面々も釣られたように笑い出し、唯一、小蒔だけが意味が判らないようで首を傾げている。 小蒔と京子の鈍さは、ひょっとしたら同じ位かも知れない、と遠野は思う。 周囲の笑いを遮るように、醍醐がわざとらしく咳をする。 「そ、それで、どうなんだ」 「あ?」 「お前の話をしていたんだろう、蓬莱寺。お前に…その……ないのか? さっき言ったような…」 話を元に戻されて、このままあやふやにして逃れてしまおうとしていた京子は、判り易く溜息を吐く。 醍醐までこんな話に食いついてくるとは思わなかった(醍醐は醍醐で、自分への矛先を変えたかったのだろうが)。 仕方がないので、考えてみる。 一人の男が気になる。 その人物の前だと緊張する、ドキドキする。 他の事が手につかなくなる。 ある特定人物に対してのみ、特異な感情が働くと言う事。 その人間のことだけが頭から離れなくなると言う事―――――― (……………ん?) ふと。 数時間前の出来事を思い出す。 自身の頬に手を持っていけば、今朝アンジーの手によって張られた湿布がある。 もう殆ど役目を使い果たしているそれは、今はその下にある痣を隠すだけの布でしかない。 それでも、剥がせば恐らく、昨日よりは薄くなっているだろう蒼くなった皮膚。 アンジーが触れる前に、其処に触れたのが誰だったのか。 その触れた手の温もりは、アンジーよりも少し冷たくて、慣れない気配を纏っていて。 (……待て待て。ちょっと待て。つーか落ち着け) がしがし、頭を掻く。 頬に触れた手。 見下ろす瞳。 向けられる笑み。 向き合っていれば逃がさない癖に、背中を向ければ追って来ない。 無遠慮に振り回す癖に、急に手を離したりして。 あの時打ち払った手は、決して京子に害を成そうとしたものではなく。 それでも理由の判らない感情の向かう先が判らない今、それは京子を戸惑わせるものでしかなく。 (――――だから待て。落ち着け。止まれ!) 寒空の下で逢う度に、嬉しそうな顔をして。 だけれど、何処か寂しそうな顔をして。 ……どうしてそんな事が判るほど、あの顔を見ているのか。 そんな顔が鮮明に蘇るほど、繰り返し思い出しているのか。 どうして記憶の海に埋もれて消えてしまわないのか。 気になる訳じゃない。 緊張なんかしない。 他の事が手につかなくなったりなんか、しない。 ―――――でも。 考え出すと止まらないし、頭が痛くなるほど考えるし。 どうにも苦手だから、顔を見ればどうしても気が抜けないし。 昨日だって試合の真っ最中だと言うのに集中出来なくて。 一人の男が気になる。 その人物の前だと緊張する、ドキドキする。 他の事が手につかなくなる。 そんなのは知らない。 知らない、けど。 『勿体ないよ。綺麗な顔してるんだから』 夕映えの空の下、そう言って触れた手の熱を、今も覚えている。 顔から火が出た。 そんな勢いで、京子の顔が赤くなる。 微熱の火照り等よりももっと赤くなった京子に、龍麻がきょとんと首を傾げる。 「京?」 呼ぶ声に我に返った京子と、覗き込む龍麻との視線がぶつかる。 「え、い、あ……」 「顔赤いよ」 「アラ。熱が上がっちゃったのかしら」 アンジーの手が京子の額に触れた。 大きくて無骨な手のひらは、京子にとって馴染んだもので、其処に何も恐怖など感じられない。 京子が幼い頃、アンジーは京子と手を繋いだ事もあったし、その時は照れ臭いと思いながらも、温かく感じられたこの手が好きだと素直に思えた。 いや、今だってこの手は好きだ―――――多分、一生変わらない。 見下ろしてくる瞳は優しくて、これも幼い頃から馴染んだものだ。 仕方がないわねェと半分呆れたように見守る眼差しも、全部。 その隣で、京子の熱が上がったと聞いて、心配そうに見ている葵がいる。 小蒔と遠野、醍醐もいつにない京子の様子に、眉尻を下げて様子を伺う。 傍らの龍麻は、いつもと変わらぬ表情で、ただ此方を見ているだけ。 此処にあるのは友愛、親愛。 ―――――――それじゃあ、あの男が向けてくるのは? 浮かびかけた言の葉を打ち消すように、京子は席を立った。 突然の行動にアンジーが目を丸くする。 「京ちゃん?」 大丈夫? と問いかけてくる声に、ああ、とだけ呟いて。 「悪ィ、オレもう少し寝てる」 「…そう、ね。その方がいいわ」 「京子〜、大丈夫なの?」 店の奥に戻る京子の背中に、葵と小蒔の声がかかる。 それに振り返らないまま、京子はひらひらと手を振った。 浮かびかけた言の葉が答えなのか、否か。 考えるのも嫌だった。 火が点きそうで点きません。 じれったいのがまだ暫く続きます。 今回でようやく、京ちゃんが“意識している”ことを意識しました。 此処まで来るのにこれだけ時間がかかって……此処から先もまだ長いですよ。 二人がくっつくまで、気長にお付き合い頂けたら幸いです。 |