いつか言える日が来たら、 Event that no one knows. 前編 京子が学校を休んだのは熱を出していたその日一日だけで、翌日にはいつも通りに登校した。 サボタージュが当たり前になっている京子が一日休んだ所で、誰も彼女が体調を崩していたとは思わない。 故に一日振りに見た学校風景は、前々日と何も変わらないままの日常で彼女を迎え入れた。 唯一心配の声をかけてきたのは、舎弟の吾妻橋達のものだ。 「大丈夫ですかい?」と問い掛けてくる彼らに対して、京子は気にするものでもないと一蹴する。 それで彼らも安心したようだったが、何を思ったか、彼らは大量のホッカイロを京子に押し付けた。 既に封を切って温かくなっていた貼るタイプのカイロと、それと同じ未開封のカイロを大量に。 どうやら彼らは、京子が体調を崩したのを昨今の気温の低下によるものだと思ったようである。 押し付けられたカイロの量には呆れたが、寒くなってきているのは確かで、京子は防寒に向く服を余り持っていない。 有難いのでこれは貰っておく事にして、開封されていたものは制服の裏地に貼り付けて一日を過ごした。 昨日、あれだけ酷かった頭痛は、既になくなっていた。 京子の目の前にはいつも通りの日常風景が広がっており、其処に引っ掛かる“何か”は何処にもない。 至って平穏な一日であったと言って良い。 しかし、一つ不運な事があった。 体育の授業で校外マラソンをしていた真っ最中、突然の大雨に見舞われたのである。 最初はぽつりぽつりと降っていただけだった雨粒。 これ位なら授業中止にはしなくて良いだろうと体育教師は判断したのだが、それは甘かった。 授業の時間が半分を過ぎた頃になって、雨粒の量は増し、次第に小雨や天気雨とは言えないものとなった。 その頃には、生徒達は教師の指示を求めるよりも先に、我先にと軒下へと走り始めた。 ジャージを着ている生徒はそれで傘を作り、わあわあ声を上げながら皆一目散に校舎を目指した。 全ての生徒と体育教師が避難を終えた時には、雨は一層酷いものとなっていた。 酷いと言えば、生徒の有様も散々なもの。 傘代わりにしたジャージは水を吸って重くなり、絞ればじゃばじゃばと大量の水が溢れ出す。 マラソンで走ればどうせ温まるのだと、薄手の運動着しか着ていなかった生徒は、運動着が肌に張り付いて着心地が最悪。 校外から校舎へ向かう際に横断したグラウンドの泥を跳ねた足元は、斑な茶色で汚れていた。 「ったく、最悪だぜ!」 額に張り付く前髪を掻き揚げて怒鳴るように言ったのは、京子である。 その隣には龍麻がいて、うん、と小さく頷いた。 「雨降るなんざ聞いてねェっつーの!」 京子は天気予報も見ないし、新聞も見ない(正しくは見れる環境にない)ので、その日の天気はその時にならないと判らない。 午後からの雨対策などする事は滅多になく、放課後になって突然降り出した雨にズブ濡れで帰る羽目になる事も多い。 そんな訳で、朝は降っていなかった雨が降り出した時、この台詞は高確率で口を突いて出る。 この台詞に対して、周囲の反応はその時々によって変わる。 「天気予報で言ってたよ」とか「降りそうな天気だったでしょ」とか言われる事もあれば、今の龍麻のように彼女の言葉に無言で頷いてみせる事もある。 今回は後者だった。 今日は朝から天気が良く、龍麻や葵達も唐突にこんな雨が降るとは思ってもいなかった。 体育が始まる頃から少し雲行きが怪しいなとは思ったが、合間合間に雲の切れ目もあった。 降り始めた時だって少し雨粒が大きいくらいで―――――……それがこの結果となっては、京子の言にも頷こうと思うもの。 京子はブツブツ文句を言いながら、濡れそぼった薄手の運動着を絞った。 龍麻もその隣で運動着を脱ぎ、水分を確りと搾り出している。 出来れば京子も脱いで絞ってやりたかったが、此処は下駄箱で、唐突な雨から逃げて来た生徒は彼女達だけではない。 他のクラスメイト―――勿論男子生徒もいる訳で。 京子はその点について全く気に留めていないのだが、他の生徒が気に留める。 先程も脱ごうと思って運動着に手をかけた瞬間、目敏く見つけた葵と小蒔に止められた。 ぎゅうと絞れば、水が雫ではなく流れになって床に落ちる。 改めて今日の雨の酷さを実感し、これは放課後までに止んでくれるのかと思って少し憂鬱になった。 そんな京子に、葵が声をかけてきた。 「京子ちゃん、緋勇君。体育の授業、中止ですって」 それはそうだろう。 降り始めの時に撤収していれば、体育館に変更して授業を続けられただろうが、残念ながら既にこの有様。 運動着の着替えなんて持っている生徒は殆どいまい。 「着替えて、その後は自習ですって」 「おー」 「判った。ありがとう、美里さん」 律儀に礼を言う龍麻に、葵はくすぐったそうに微笑む。 それから、靴を履き替えていなかった二人に手を振り、小蒔に呼ばれた葵は一足先に教室に上がった。 靴もあちこちから水や泥が染み込んで、可哀想な事になっている。 帰る前に乾くんだろうかと考えて、望みは薄そうである事にも気付いてしまった。 思わず溜息が漏れる。 漏れた後で、また別のものも。 「―――――っくし!」 くしゃみが出た。 おまけに鼻水も。 ずずっと鼻を啜ると、龍麻がひょっこり、横から顔を覗き込んできた。 「ぶり返した?」 「……いいや。寒ィだけ」 龍麻がそう言うのは、昨日学校を休んだからだろう。 症状は頭痛と発熱だけで、寒さも何もなかったから、別に風邪ではなかったと思う。 けれども体調不良であった事は事実だ。 理由や原因、症状が何であったにしろ、他者から見れば京子は病み上がりの身である。 体を冷やすのは得策ではない。 季節は冬、普通に過ごしていても寒さは否めない季節である。 それに加えて濡れ鼠になったとあっては、肌に突き刺さる耐寒温度は通常の倍。 濡れた服は早く着替えないと、今度こそ本当に風邪をひくことになる。 「誰かにタオル借りた方がいいよ」 「あー……面倒臭ェ」 気だるさを隠しもせずに教室へ向かう相棒の台詞を、龍麻は咎めなかった。 そして京子も、そう言いつつも、確かに借りた方が良いだろうなと肌身の寒さを感じながら思うのだった。 散々降った雨が上がったのは、放課後を迎える頃。 傘を持っていた生徒は殆どいなかったから、これは幸いだった。 しかし、京子はそれでも万歳とは行かない。 病み上がりの上に濡れ鼠になったのが、当人や周囲が思うよりも尾を引いて、あれからくしゃみが止まらない。 熱こそなかったものの、このまま放っておけば今度こそ風邪をひいてしまうのは確実である。 ついでに、雨が降ったのは昨日京子が熱を出したからじゃないか、などと迷信地味た冗談を遠野に言われて、とんだ濡れ衣を着せられた(勿論、身内の冗談であるとは判っている)事もマイナス要因の一つである。 体調の悪い人間を、寒空の下で歩き回らせる訳には行かない。 だから放課後、午前のうちに話していたラーメン屋に向かう案を棚に仕舞って、全員直帰する事になった。 途中までは全員一緒に、分かれ道になると龍麻が葵と遠野を、醍醐が小蒔を送る為に別れた。 葵は体調不良の気がある京子を一人に帰らせる事に気負いを感じていたようだったが、生憎、京子が其処に頓着しない。 良いから行けと背を押されて、せめて喧嘩をしないでねと言う声を背にして、京子は慣れ親しんだ歌舞伎町に入った。 歌舞伎町に入ると、人の熱気や溢れる電光掲示板の光の所為だろうか。 帰る道中にあった肌寒さが、少しだけ和らいだような気がした。 建物がひしめき合って風が中々入り込んでこないのもあるだろう。 街灯の横に飾られた時計を見遣ると、直に『女優』が営業になる時間帯に差し掛かっている。 子供の頃からいる場所で、客も殆どが京子と顔見知りだ。 だから今更気にかける事もないのだろうが、此方は無償での寝食の場をを提供して貰っている居候の身である。 一応、営業時間になる前に戻った方が良いだろうと、歩く足を少し速めた。 ―――――――その矢先。 「……………」 道の向こうで屯している数人の男を見つけて、京子は足を止める。 無視していく事も出来た。 が、そうすると十中八九、彼らは京子を追い駆けてきて、その手に持った物騒なものを振り下ろしてきただろう。 立ち止まった京子に、男達の目が向けられる。 彼らが自分を待ち伏せして、此処で屯していた事は容易に想像できた。 立ち止まった瞬間に幾つかの不穏な気配が、人壁や細い路地の隙間で動くのが判った。 今度は何処の連中だろうと思いながら、京子は持っていた木刀を握る手に力を込める。 (……雑魚だな) 京子を囲むように漂う、気配。 数は十はあったが、京子は焦る様子もなく、心中は至って穏やかだ。 ……思考は物騒な方向へと進んでいるが。 気がかりといえば、自分の鼻がむず痒い事ぐらいか。 それも事が始まってしまえば、大した問題にはならないだろう。 前で道を塞いでいた男の一人が、一歩踏み出した。 それを皮切りに、ぞろぞろと姿を隠していた男達も人波を割って出て来る。 周囲が不穏な気配に気付いて輪を作るように京子達を避け始める。 その中の幾つかが京子の存在に気付き、女が一人で物騒な連中に絡まれることを気にかけるように眼を細めていた。 が、それらは結局、人の流れに逆らう事なく消えて行き、その内、京子に向けられる気遣いのような視線もなくなった。 リーダーであろう男が近付いてくる。 京子は木刀を構える事もなく、だらりとした姿勢でその場に立ち尽くしていた。 男は京子から数歩分の距離を残して立ち止まると、口を開いた。 「ひ、久し、ぶりだ、な」 「…………」 呂律が回っていない。 何を言っているかは判ったが。 電光に照らされた男の顔に、京子は見覚えが無い。 それはいつもの事だ、絡んでくる連中の顔など一々覚えていないし、そうしていたら切りがない。 それよりも、男の目が常軌を逸している事の方が京子は気にかかった。 (ヤク中かアル中か……ま、どっちにしても) カクカクと小刻みに震えているのが見えて、やはり雑魚だと決定付ける。 一週間ぐらい足腰立たなくしてやっても良いだろう。 こんなのがリーダーをやっている位だから、周りも大した事はないに違いない。 「探した、ん、だぜ、ぇ。おめ、え、あちこち、いって、る、から、よ」 「………あーそうかい」 あちこち行っているほど、動き回っているつもりはないのだが。 頭の沸いた者の考え方など、知りたくもないので、これは流そう。 「な、あ。まえ、前に、に、いいいいいったこと。お、おお、ぼ、ぼえて、る、か、あああ?」 「……はぁ?」 京子のこの一声は、男が何を言ったか判らなかった故のもの。 しかし、男はそうは受け取らず、会話が成立しているものと思っていたようで、 「覚え、て、てね、か。ま、いい、や、いい。いい、へへへ、へ……」 男のその言葉を聞いてから、京子はようやく理解した。 「前に言った事を覚えているか」と男が言ったのだと言う事を。 それもやっぱり覚えていなかったので、男の反応は強ち間違いではなかったが。 回らない舌とカクカク揺れるのと、常軌を逸した眼と。 どれも見ていて気持ちの良いものではなくて、京子は基本的に誰に絡まれても特に気に留めることなく殴り飛ばして終わりなのだが、今回のこれは一種のトラウマになりそうだと思う。 卑下た笑いを浮かべながら、此方を値踏みするように無遠慮に見つめる瞳も、おぞましいものに見えた。 此処にいるのが葵やアン子だったら、悲鳴を上げるんだろうな。 途中で別れて良かった、と別れ際に心配そうに此方を見ていた級友達を思い出して内心で呟いた。 「いいぜ、いい、覚えて、な、な、なくて、も。いいいいい、いっ、一緒、だ、だから、なぁああ」 なんだか擦り切れたテープを、壊れかけのラジカセで再生しているようだ。 聞くに堪えない、叩き壊したい衝動に駆られるのは、何も京子に限った話ではなかっただろう。 取り敢えず、顔面を一発ぶっ飛ばす。 そう決めて、木刀を太刀袋から取り出そうと、紅い紐を解いた。 その直後、ぞくりとしたものが京子の背中を奔る。 (こいつ、は――――――――) 未だゆらりゆらりと揺れている男を見て、京子は眦を吊り上げる。 周囲の空気が、不穏とはまた違う、おどろおどろしいものに変わって行く。 排気ガス等による大気の澱みとは一線を隔し、有機物無機物関わらず流れている“氣”そのものが汚れていく感覚。 それに気付いているのは、恐らく、この雑多に人が溢れる街中で京子只一人だけだろう。 常人には気付く事が出来ない“氣”の澱み、捻じ曲げられる流れ。 それらは別のものに飲み込まれて食い潰され、別のものとなり、また別のものを食い潰す。 京子は“氣”を視ることは出来ない。 しかし、感じる事は出来た。 悪循環を引き起こすモノ。 その中で生まれ出るモノ。 汚れていく、食われていく、潰れていく、そして生まれる澱んだモノ。 人が道を外すのとは違う、人が人の形のまま堕ちて行くのとは違う。 ――――全てを歪めて昏く笑うモノが、此処にある。 京子は跳んだ。 反動なしで、高く、高く。 それで正解だった。 中空に浮いたまま地面を見下ろせば、うねうねとした長細いものが京子が立っていた場所を埋め尽くしている。 「クソが!!」 鬼だ。 あの男は、既にヒトならざるモノに堕ちている。 いや、リーダーの男一人ではない。 周囲を囲んでいた男達からも同じ気配が感じられる。 そうだ、そうでなければあんな頭の可笑しすぎる言動をする者をリーダーにする訳がない。 恐らくリーダーの男に統率の役目を持つ鬼が、舎弟はその手足として侵食されたのだ。 周囲で遠巻きに動向を見守っていた人々が一気にパニックになる。 人だと思っていたものから、得体の知れないモノが飛び出し、暴れ出したのだ。 無理もない。 幸い、男達が興味を注いでいるのは京子だけで、辺りで悲鳴を上げて逃げ惑う人々には眼もくれない。 ならば此処にいては此方の不利になるだけだと、京子は地面に降りると、もう一度跳躍した。 人の流れのない、細い路地を狙って。 路地の入り口には舎弟の男が立っていたが、向かってきた京子におろおろとするだけ。 指令がなければ動けるタイプでないなら、其処にいるのはただの木偶の坊でしかない。 元がチンピラな上に鬼に巣食われてしまっているなら、何も遠慮する事はない、木刀で横腹を殴り飛ばした。 ゴミ置き場に吹っ飛んで動かなくなった男には眼もくれず、京子は路地を駆け抜ける。 おぞましい気配は直ぐに追って来た。 細道を縦横構わずに走り回って、行き着いたのは、寂れた商店街。 あちこちにゴミ屑が散乱しており、灯りはなく、辺りも静かなものだった。 獲物を振るうに十分なスペースのある場所を確保して、京子は振り返る。 「――――――うらぁああッッッ!!!」 咆哮一つ。 木刀を大きく薙ぎ払えば、渦を巻いた風が迫り来ていた物体を切り裂く。 が、その直ぐ後から、第二陣が迫っていた。 襲い掛かってくるものは、人の腕ほどの太さを持った、蛸の足のような触手。 ぐねぐねと絡み合って動く様が、また気持ちが悪い。 この手合いは、幾ら触手を切り落としても無駄だ。 本体を叩かなければ。 そう思って気配を探っていたら、先程感じたおどろおどろしい気配が思ったよりも近くにあった。 単体ではなく、恐らく舎弟達のものも多数感じられたが、京子にとって数は問題ではない。 触手の動きも然程早くはないし、本体の場所が特定出来れば瞬殺で終わり。 大体、九角の一件から既に数ヶ月、龍脈の乱れは完全とは言わずとも収まりつつある。 以前のような梃子摺る相手は殆ど見られなくなり、京子が単身で相手をしても何も危惧する事はない。 この商店街に人の気配は感じられない。 店だけが立ち並んでいて、経営者の家は別にあるのだろう。 ついでに、寂れかかっている風景から、昼日中でも運営している店は少ないだろうと予想できた。 だったら、躊躇わなくて良い。 蛇行しながら前進する。 眼前に迫る触手は避けて、後ろから追い駆けてくるものは、横合いを狙ってきたものと一緒に返す刀で切り捨てた。 触手の合間を縫って、舎弟達が襲い掛かって来た。 どの男も、リーダーの男と同じように、常軌を逸した眼をしている。 中には涎を垂らし、ああだのううだの呻きながら、脊髄を失ったように上半身を揺すりながら迫る者もいた。 鬼は男達の体内に巣食っているのだろうか。 垂れた涎が、アスファルトに落ちて、じゅうと酸化する音を鳴らす。 妙な異臭がした。 下手な事をして血でも浴びたら、どうなるか判ったものではない。 京子はなるべく相手の皮膚を裂かぬように、柄で男達の頭を殴打して前に進んだ。 数人の男を退けた所で、ふらりふらりと振り子のように揺れる男が姿を見せる。 「へへ、へ、へへへへへええぇ」 相変わらず、卑下た笑いを浮かべる男。 醜く歪んだ顔が気持ち悪くて半歩下がると、足元の水溜りが跳ねた。 触手の一本が京子の左腕に絡まった。 触手はぬとりとした光を反射させ、力任せに京子の腕を締め上げる。 同じように足にも絡まったそれに、一瞬、京子の表情が苦悶に歪んだ。 その間に男は後一歩という場所まで近付いている。 近くで見た男の顔はやはりあらゆるバランスを崩しておぞましいものになっており、吐き出す吐息は黒い煙のような氣を撒き散らしていた。 黒い吐息は京子の辺りを覆い、まるで此処は自分のテリトリー――――身の内だとでも言っているようだ。 男は身動きできない京子を見て、益々笑い出す。 「ひひひひひ、ひぃ、いい、いいカオだァなァ。ややややっぱ、お前、お前、イイ、女だあああ」 「――――気色悪ィんだよ、このクズ!!」 京子の“氣”の流れが激しさを増す。 日焼けした肌に、緋色の文様が浮かび上がる。 締め上げ拘束する力に、京子は同じ力技で抗う事を選ぶ。 どうすれば自分への負担が軽くて済むかなど、考えるほど自分の頭は上手く回転するように出来ていない、京子はそれを重々自覚していた。 ぶちぶちと音を立てて、触手が引き千切られて行く。 それを阻むように黒い吐息が触手に変わって腕に巻き着くが、それは触手よりもずっと脆かった。 跳ね上がった京子の“氣”の激しさに負け、霧散する。 剣を使う腕が自由になれば、後は楽なものだ。 足に絡み付いている触手を切り捨て、同じく黒い吐息も消し去る。 暴れる氣の渦を纏って、京子は男に真っ直ぐに突進した。 「とっとと、寝ろォッッッ!!!!」 男は正気ではない。 吐き出す吐息は、周囲全てに害を成す。 恐らく、そうして舎弟達も侵食され、おぞましい鬼の姿と変貌したのだろう。 第三者が意図的に暴走させたものと違い、自ら堕ちた鬼は、もう人の世には戻れない。 葵の《力》があれば可能かもしれないが、此処に彼女はいないし、あれは命のサイクルを大きく狂わせる作用も持っている。 不用意に使って良い《力》ではない。 そしてそれ以上に―――――この堕ちた男を待つ者も、恐らくは既にいないだろうから。 京子は一瞬の躊躇もなく、男の心臓を貫いた。 「……へッ…ひへッ……ひひへッ……」 「…しぶてェな……――――――ッ!!」 貫いた木刀を男の体から引き抜こうとした、一瞬の停止。 その瞬間に、男は京子の顔目掛けて、口から大量の黒い吐息を吐き出した。 咄嗟に息を詰めたが僅かに遅い、澱んだ氣の幾らかを京子は取り込んでしまった。 木刀を引き抜く勢いそのままに、後ろに飛ぶ。 着地点にあった水溜りに足を取られて尻餅をついたが、そんな事に構ってはいられない。 「ッげほ、おえッ…! うっぷ……ッ」 吐き出されるものはなかったが、京子は吐き出したくて堪らなかった。 喉の奥がぞわぞわとして気色が悪い。 その間に男は笑う事を止め、形を保つ事も止めた。 地面に落ちていた本体から切り離された触手は、土の塊になる。 顔を上げれば其処には静かな商店街の町並みがあるだけ、舎弟の男達の姿も失われたようだった。 「……最悪だぜ」 呟いて、口元を拭って立ち上がる。 今日二度目の台詞だった。 が、がくりと膝が折れて、水溜りの中に沈む。 ―――――……最悪。 これで三度目。 今日は三度目で、此処数日では既に何度目か判らない程に呟いた台詞だった。 次 |