本当の君は、何処? Virtual image T 繰り返し炊かれるフラッシュの光彩の中。 固定のポーズを取ったまま、じっと動かない少女の肢体が、光彩を反射させて閃く。 俯きに傾いた頭と、寝癖のように跳ねた髪を掻き揚げるように添えられた手。 白い背景パネルとタイル床の小さな空間で、真っ白なシーツに包まれ、白いタンクトップとショーツだけを身に着けている少女。 瞼を半分閉じた気だるげな表情は、寝起きの無防備さを醸し出していた。 注文されたシチュエーションを作り出したのは、他の誰でもない、彼女自身だ。 スタイリストが綺麗に整えた髪をわざと手櫛で乱れさせ、タンクトップも一つ上のサイズに変更させた。 メイクだけはどうにも苦手なのでスタッフに頼んだが、それもかなり細かく注文していた。 その姿は、メイキングの様も合わせて、正にプロフェッショナルと呼ぶに相応しい。 数回のフラッシュの後、彼女は少しずつポーズを変える。 髪を掻き揚げる仕草のワンショットから、目を擦るショット、両腕を上げて背筋を伸ばすショット、欠伸を漏らすショット。 茫洋とした意識が、明確な覚醒に行き着くまでの時間の流れが、グラフィティの中に記録されていく。 「眠っている所も撮りましょうか?」 「いいね。どう、疲れてない? 少し休憩挟む?」 プロデューサーとカメラマンの相談の声に、少女はひらりと手を振り、シーツを手繰り寄せた。 彼女の表情に疲れは見られず、これなら大丈夫だとカメラマンは再びレンズを向けた。 シーツに包まって目を閉じる少女。 何度か寝返りを打つように右へ左へと転がると、少女を包んでいたシーツが乱れた。 シーツの隙間からすらりとした脚が覗き、男性スタッフの視線が集まる。 証明の角度が何度か代わり、少女の顔へ陽光が差すように照らし合わされる。 カメラのシャッターが下りる音に合わせて、少女は意識の浮上から目覚め、そして起き上がるまでのショットを通す。 そうして、カメラマンが彼女からカメラを外した時には、撮影開始から一時間以上が経っていた。 「お疲れ様。休憩入ろうか」 その言葉を聞いて、少女はほっと安堵の吐息を漏らす。 直ぐに立ち上がろうとした彼女に、慌てて女性スタッフが駆け寄った。 厚めの毛布を手渡された少女は、撮影用の薄いシーツを床に落とし、代わりに毛布に包まった。 男性スタッフの残念そうな溜息が聞こえて、女性スタッフがそれを睨み付ける。 サンダルを履いて撮影パネルから離れると、少女はスタッフに促されて待機用の溜まり場に移動した。 其処には一人の青年が待っており、戻ってきた少女に柔らかく微笑みかけた。 「お疲れ様、京ちゃん」 「うん」 くしゃりと青年の手が少女の頭を撫でる。 京ちゃん、と呼ばれた少女の名前は、京子と言う。 一年前にデビューした若手のモデルで、現在はファッション雑誌の表紙を飾る程の人気と実力を持っている。 ほんのりと日焼けした肌は、白いシャツや青空によく映え、健康的で洗練されたイメージがあり、男女年齢問わず多くの支持者を集めていた。 そんな彼女のマネージャーを勤めるのが、青年――――八剣右近である。 一年前は普通の高校生であった京子をスカウトし、そのままマネージャー付きとなり、仕事と共にしている。 京子はデビューしてから一年、つまりまだ新人の域を出ない。 少し日焼けした健康的な肌色に、眦は少しきつめではあるが、微笑めばその険は柔らかなものになる。 すらりと伸びた両手足に、確りとしたくびれのある腰、全体的に細身に見えるのだが、胸元は成長著しい。 平均よりも高い身長に細身、出る所は出ている、と言う、今時の若者の理想のスタイルが揃っている。 仕事への姿勢はベテランにも負けず劣らずと言う風で、更には天性の素質であるのか、独自の感性で一気にスターダムを駆け上がってきた。 最近は若者向けのドラマへのオファーも入るようになっていて、其方は未だ受けてはいないものの、時間の問題ではないかと噂されている。 新進気鋭、とは彼女の為にあるような言葉だと囁かれていた。 同じく、そんな彼女を見つけた八剣も、それ程マネージャー業が長い訳ではない。 見た目の年齢の若さを裏切らず、まだ三十代にも昇っておらず、京子同様にこの業界では若手の部類に入る。 しかし彼の選ぶ仕事と眼には、事務所の社長も絶対の信頼を置いていると言う。 この二人が揃えば、正に怖いもの無しだと言う事だ。 ただ唯一、傍目に見る人々にとって不安要素があると言ったら、 「――――――きゃ!」 短い悲鳴が京子の口から弾けて跳んで、スタッフ達の目が其方へと向けられる。 が、その原因を確認すると、皆顔を顰めながらも明後日の方向へと目を背けてしまった。 悲鳴を上げた京子の背後には、プロデューサーの姿。 歳は五十を迎えたか、もう既に越えたのではないかと言う程の、男性である。 その男の手は京子の下肢の辺りで妖しい動きをしていた。 京子は慌ててプロデューサーから離れると、八剣の後ろに隠れる。 真っ赤な顔で背中にしがみ付いてくる彼女を庇いながら、八剣はプロデューサーに冷たい目を向けていた。 「冗談にしては性質が悪いですよ、プロデューサー」 「おお、すまんすまん。いやいや、良い安産型だと思ってな」 「………ッッ」 ふるふると震えてマネージャーにしがみ付く京子。 その姿は怯える小動物そのものだ。 京子の眦は普通に比べて猫のように尖り気味ではあるが、彼女の性格自体は大人しいものだ。 撮影時以外で褒められると直ぐに赤くなり、恥ずかしそうに俯く。 仕事で一緒になった男性モデルやスタッフから連絡先をと求められて、どうして良いか判らずに戸惑ってしまう事も多い。 口数が多い訳でもなく、大人数での撮影の空き時間でも、専ら黙って人の話を聞いているだけだった。 この芸能界で生きていく事に置いて、仕事への姿勢や才能は問題ない。 が、スタッフや仕事仲間達がそれ以上に心配するのは、京子のこう言った対人関係に置いての消極さだ。 低俗な話、上役からのセクハラやパワハラなどは特別珍しい事でもない。 新人であるにも関わらず、人気も仕事も増える一方の京子をやっかむモデルも少なくはなかった。 京子はそう言った事に泣き出す事はないが、反論や抵抗を一切見せない。 黙って耐えるか、マネージャーに庇われて背に隠れているのが精々だった。 何事も抵抗すれば良いとは言わない。 だが、大人しくしていればしているだけ、調子に乗ってエスカレートする人間もいるのだ。 常にマネージャーの八剣が張り付いていられる訳ではないから、そんな時に頼る人間がいなかったらどうするのかと、彼女に好感を持つ仕事仲間やスタッフは心配せずにはいられなかった。 睨む八剣から逃げるように、プロデューサーは鼻の下を伸ばした笑みを浮かべて離れて行く。 京子はその視線すらも嫌がるように、ぴったりと八剣の背中に縋り付いていた。 やがてプロデューサーが煙草を取り出しながらスタジオを出た所で、八剣は振り返る。 「行ったよ、京ちゃん」 「……ん」 俯いたままの京子の頭を撫でて、八剣は近くにいた女性のADスタッフに声をかける。 「悪いけど、楽屋に戻らせて貰うよ」 「はい。――――京子さん、ゆっくり休んで下さいね」 「……うん。ありがとう」 目尻の雫を拭う仕草をしながら感謝を述べる京子に、ADはいいえ、と笑ってみせた。 それでも京子は顔を上げない。 スタイリストが用意していたシャツとパーカー、ジーンズを受け取り、毛布に包まったままでそれを着込む。 終わって毛布を解けば、今時の若者とそう変わらない印象の少女が其処にいた。 撮影中の、薄手の頼りない衣装でも仕事に没頭していたプロフェッショナルの姿は見られない。 俯く京子の肩を押して、八剣はスタジオ出入り口へと向かった。 ……その耳に、潜められた囁きが届く。 「あれ位で泣く事ないじゃない。私、もっと酷い事された事あるもの」 「甘やかされてるんじゃないの」 「ポッと出で調子に乗ってるのよ。ああしてたら、皆がカワイソウーとか思ってくれるとかってさ」 「マネージャーが過保護すぎるのよ。だからいつまで経ってもあんなでさ」 「そりゃ男ウケは良いでしょうねー。お偉いさんとかさ」 「ねェ、ホントはもう寝たんじゃないの? ウブな顔してるけど、ああいう子って以外とさァ……」 ――――別のスタジオで撮影を終えた先輩モデル達だろう。 自分の撮影を終えて、京子が此処で仕事だと聞いて、わざわざ厭味を言いに来たのだ。 その声が聞こえる度に、京子の細身の肩が小さく跳ねる。 俯いて唇を噛む姿は、確かに他のスタッフや、ああ言った輩とは別の先輩モデルには同情を誘うものがある。 それが彼女達にとっては余計に腹が立つらしい。 八剣も、長くはないが短くはないこの業界の中で、ああいう女性を見て来た。 その度、顔は綺麗だけど美しくはないね、と声に出さずに思っていたものである。 せめて人前で位、その本性を隠していれば、もう少し綺麗なメッキが塗れるだろうに、と。 メッキで塗り固めるなら、せめて人前に出る時はメッキの色を護るべきだ。 肩を震わせて歩く少女を見下ろしながら、八剣はそう思った。 カードキー式の楽屋のドアを開けると、京子は八剣が促す前に部屋に入った。 鏡面台とパイプ椅子が四つ、それに広めのテーブルに、衣装クローゼット。 それが京子の楽屋で、此処には仕事開始の呼び込み以外、基本的には人払いをしてある。 此処でなら京子は誰の目も気にする事なく、ゆっくりと休めるのだ。 ―――――そう、誰の目も気にする事なく。 そんな訳だから、此処に入った瞬間、彼女の仕事のスイッチは完全にオフになり。 「あンのクソジジィッ!!!」 ガシャン、と力一杯パイプ椅子を蹴飛ばす京子。 怒りを隠そうともしない彼女の表情は、それまでの儚さなど何処へやら、まるで鬼のようだ。 それを見ながら、八剣は苦笑し、彼女の蹴りの被害に遭っていないパイプ椅子に腰を下ろす。 「ジロジロジロジロ人のケツ見やがって。挙句に触りやがって! 気持ち悪ィったらねーんだよ、変態オヤジ!!」 「確かにあれは赦されることではないね、人として」 「ババァ共もこっちが大人しくしてりゃ好き勝手喋りやがってェェエ〜……」 先刻と同じように、肩を震わせている京子。 その理由はさっきと同じで、恐怖でも萎縮でもなく、純然たる怒りから来るものだった。 「クソジジィ! そんなにケツが好きなら、テメーでテメーのケツ触ってろっつーの!」 「それこそ変態だね」 「絶対ア○ルでフィ○トやってるぜ、あのオヤジ。自分でな。あー気持ち悪ィ!」 「……想像したくもないな」 「ババァも人を尻軽みてェに言いやがって。誰があんな狸と寝るか!」 「あの狸に京ちゃんは勿体無さ過ぎるよ」 「勿体あろうがなかろうがお断りだ! あのオッサンの汚ェデブ腹に押しつぶされたら、圧死するに決まってらァ!」 先程、女性先輩モデル達が京子に対して随分と好き勝手言っていた、けれども。 彼女も彼女で負けてはおらず、寧ろもっと酷いのではないかと思われる程だ。 それと同時に、京子はパイプ椅子に繰り返し当り散らす。 この部屋は防音が確りとしているので、多少の音や声は外に漏れない。 が、それでも限度はあるだろうと思うほど、京子はパイプ椅子を蹴り続けた。 そんな彼女の姿は、撮影直後に見せていた、消極的な少女の儚さなど微塵もない。 乱暴な口振りに、物に八つ当たりし、先程の自分への悪口を言った人々への更なる中傷の言。 元気で溌剌とした印象、しかし一転して実際には大人しめの性格。 それを信じて疑わないファンや業界の人間が見たら、きっと夢か幻か、若しくは自分の目がどうかしたかと思うだろう。 特にファンなどは一週間は寝込むのではないだろうかと、八剣は思う。 誰に何をされても言われても、反論も抵抗もしない、大人しい京子。 人目から離れた途端、がさつで乱暴な言動をし、挙句無機物に当り散らす京子。 どちらが本当の彼女かと言うと―――――後者である。 「おい、あいつら一発ブン殴って来て良いか」 「気持ちは察するけど、流石に駄目だね」 「ンな事判ってらァ! 判ってっから余計にブン殴りたいんじゃねーか!」 握った拳をワナワナと震わせて、結局それは物言わぬテーブルへと落ちた。 普通なら殴った拳の方が痛くなるのではないかと思われるが、京子はそんな事は構わない。 モデルの手だ、体だと言われても。 八剣はと言うと、彼女の好きにさせているばかりで、止めようとしない。 制裁を加えに行くことは止めたが、当り散らすのを止めろとは言わなかった。 京子のこのギャップは、“モデル”としての彼女を売り出す時の形が原因だ。 事務所の社長がこの方向でGOサインを出し、その上見事に売れてしまった為、彼女はこのまま芸能界でイメージを保っていかなければならなくなった。 スカウトした八剣は、京子の性格も考えて、ストレスになるだろうと反対した。 しかし「それなら彼女のデビューは無し」と言われると、折角のダイヤの原石を見付けた人間としてはどうしても惜しくなる。 結局、売れなかったら方針転換すれば良いと京子を諭し、デビューに漕ぎ着けた。 結果、社長としては嬉しい事に、八剣としては複雑な事に、京子は着実にモデルとしての基盤を築く事となった。 ……彼女の本質と性格とは、全く逆の形で。 「あーッ、くそったれ!」 蹴り飛ばし続けて、それでも床に倒れなかったパイプ椅子にどっかりと座る京子。 恥ずかしげもなく両足を開く様は、女らしさとは程遠い。 八剣にとっては、彼女のそんな女らしくはない、けれども自分自身に正直な姿こそ、彼女の魅力だと思うのだが――――悲しいかな、世間のファンは京子にそんな表情を求めてはいないのだ。 「再開まで三十分あるから、ゆっくり休みなよ」 「言われなくてもそうする。つーか寝る」 「仮眠室に行くかい?」 「嫌だ。誰かいるだろ、どうせ」 座ったままで椅子をテーブルに寄せて、京子はテーブルに突っ伏した。 その間に八剣は、彼女が散々当り散らした部屋の掃除にかかる。 倒れたパイプ椅子を起こし、テーブルを蹴った所為で床に落ちたティッシュ箱やメイクケースを拾う。 腕を枕に目を閉じた京子を覗き込んでみる。 眉間にはくっきりとした皺が刻まれて、彼女のストレスが相当なレベルまで溜まっているのだと判った。 無理もない――――と言うか、ストレスが溜まらない方が寧ろ可笑しい。 八剣が見付けた時から、京子は自分に正直だった。 嫌なことは嫌だとはっきり言うし、気に入らないことがあれば徹底的に抗う。 それでもTPOは弁えていて、だからこそ余計に的を射ている所があり、決してワガママで言っているのではないと判る。 それが、腹が立っても反論の一つも出来ず、嫌がらせをする相手を睨み付ける事も出来ない。 八剣の影に隠れるように逃げるのは、そうでもしないと目の前の相手を殴り付けてしまうからだ。 無理を強いてしまっている事を、八剣は悔やまずにはいられない。 こんなつもりではなかったのに――――と。 最初の頃にボロが出てしまうなら、まだ良かったかも知れない。 彼女は芸能界に長く身を置く事もなく、そうすれば、京子は嘘のメッキをいつまでも貼らずに済んだ。 売れてしまったが為に、スポンサー等のイメージにも関わるからと、常にキャラクターを維持しなければならなくなった。 それは、自分に正直に生きてきた彼女にとって、どれ程の苦痛になるだろう。 ストレスを抱えて苛立ちを抑えながら、京子は周囲のイメージを保つように勤めている。 人前であまり喋らないのは、自覚している口の悪さを隠す為で、直ぐに俯くのは怒りの表情を隠す為。 これはオフ日に街中を歩いている時にも行われており、結果、京子は常に“虚像の自分”を演じる事になった。 「ダリィ………」 テーブルに突っ伏したまま、京子が呟いた。 それから程なく、寝息が聞こえてくるようになる。 夢の世界に旅立った京子の髪を、八剣は手櫛で梳いた。 が、京子の腕が持ち上がって嫌がるように払われる。 人前で彼女がこうして八剣を拒否する事はないが、これが本来の彼女だ。 スキンシップはあまり好きではないようで、頭を撫でたりするといつも嫌がる。 誰かに頼るのが大嫌いで、男よりも男らしい性格をしているのが、京子と言う少女であった。 そんな京子が気を抜けるのは、八剣と二人きりの時だけだ。 彼女の本来の性格を知っているのは、この業界ではマネージャーである八剣と、事務所社長ぐらいのものだから。 後は家族と、よっぽど付き合いの深いプライベートの友人ではないだろうか。 友人に至っては、「いない」と京子の口からはっきりと告げられている。 ……これが何処まで本当か(若しくは、彼女の意識と周囲の認識が合致するか)は別の話だが。 瞼にかかる前髪を掬い上げると、少しだけ彼女の頭が上向いた。 意味のない吐息が彼女の喉奥から零れる。 もう一度頭を撫でる。 また払われた。 「………ごめんね、京ちゃん」 八剣の呟きに返事はない。 ないから、八剣はこの言葉を零した。 彼女が起きている時にこの言葉を漏らそうものなら、すぐさま「バカじゃねェの」と言う台詞が返る。 それは素直ではない彼女なりの精一杯の気遣いで、八剣に沈んだ表情をさせない為のもの。 イメージを護ろうとするのも、仕事以外でもそれを継続させるのも、自分が勝手にしている事であって、八剣が詫びるような事など何もないのだと。 口は悪いけれど、京子は決して優しくない訳ではない。 でなければ、こんな形でモデルの仕事を続けようとはしないだろう。 京子がどうしてモデルのスカウトを受けてくれたのか、八剣は知らない。 聞いた事もないし、聞いても恐らく答えてはくれないだろう。 一番最初にスカウトした時は、「見世物になるなんざ御免だ」と言っていたけれど、どんな変化があったのか―――――。 いずれにしても、京子がモデルの仕事を続けてくれている事は、八剣にとっては幸いだ。 こんな形でなければ、もっと喜べたのだけれど。 ドアをノックする音がして、八剣は京子が目覚めない事を確認し、ドアへと向かう。 ロックを解除して開けてみれば、スタジオを出る時に京子を気遣ってくれた女性ADが立っていた。 「もう休憩は終わりかな? 随分早いと思うけど」 「いえ、あの。そうじゃなくて……」 ADは慌てて首を横に振ると、手に持っていた袋を見せる。 「此処の食堂で買って来たんです。季節限定のケーキ」 英文でロゴの入った袋の中には、四角のパッケージケース。 それはこのスタジオのビル内にある、食堂で売り出される季節・数限定のスイーツだった。 利用者には安くて美味しいと評判の店で、この季節・数限定のスイーツも人気を博している。 「撮影の前に京子さんとお話していたら、まだ食べた事がないって仰ってたので」 「それでわざわざ、ね。ありがとう」 「京子さんは、今……あ、お休み中なんですね。お邪魔しました」 「いいや。起きたら渡しておくよ」 「はい。失礼しました。休憩が終わる頃にまた」 「ああ」 差し出されたケーキを受け取ると、ADはぺこりと頭を下げて部屋を離れて行った。 その後姿にひらりと手を振って、八剣は部屋に戻ってドアに再びロックをかける。 京子は身動ぎもせず、テーブルに突っ伏して眠っている。 人の気配に敏感な彼女が起きないとは、珍しい。 八剣が思っている以上に、彼女は疲労とストレスに苛まれているらしい。 テーブルの端に貰ったケーキを置いて、八剣はジャケットのポケットからスケジュール帳を取り出した。 その手帳には、八剣個人のスケジュールに加え、京子の仕事のスケジュールも記されている。 割合は三対七、京子のスケジュール分の方が多い。 このスケジュールを見る限り、京子の休みは後一月は望めそうにない。 (売れているのは嬉しいけれど、これだと倒れるかも知れないな) それでは本末転倒だ。 社長にかけあって、何処かにオフを捻じ込んだ方が良いか。 (けれど……休みになったからと言って、遊びにもいけないんだったか) モデルとして老若男女問わず愛されている京子は、街に出ても人目につく。 帽子やサングラス等で顔を隠しても、どうにも彼女は目立つらしい――――それとも、昨今の若者が目敏いのか。 渋谷や池袋、新宿などのような人が多い場所には行けないし、それどころか駅のホームにいるだけでもバレるらしい。 二ヶ月前だったか、久しぶりのオフ日もそのような事があって、ファンに囲まれた彼女は、もう休みの日は何処にも行かない、とぼやいていた。 一日二日の休みでは、彼女の疲労は拭い切れない。 何処に遊びに行くことも出来ない彼女は、結局部屋の中で虫になっているしかない。 海外ならば、と一瞬思ったが、それでは休みを長く取る必要がある。 今の京子のスケジュールでそれは難しい。 (イメージと言うものがこうも七面倒になるとは……) 眠る京子の隣に椅子を移動させて、其処に腰を下ろす。 すぅすぅと静かに眠る京子の横顔を見つめ、八剣は溜息を漏らした。 それから、先程ADから受け取ったケーキを見遣り、 (甘いもの、嫌いなんだよねェ) どうしたものか。 跳ね癖のある京子の髪を指で遊びながら、八剣は頭を悩ませた。 京子が起きたのは、休憩が終わる五分前。 丁度女性ADが彼女を呼びに来た時だった。 この女性ADは京子のファンでもあるようで、随分と彼女を気遣ってくれる。 「ケーキ、食べました?」 「まだ…ごめんなさい、寝てたから……」 「いえ、いいんですよ。そうですよね、私こそすみません」 「撮影が終わったら頂きますね」 「はい」 憧れの京子の撮影に参加できて、こうして話まで出来る。 それがADにとってはとても嬉しい事のようで、彼女は終始、頬を赤らめていた。 「京子さんって、どんなケーキが一番好きなんですか?」 「え? えーっと……あの、普通の…かな。イチゴのショートケーキとか」 「変り種とかって食べますか?」 「あんまり食べた事ないです。この間、雑誌の撮影でキウイのケーキは食べましたけど」 「どうでした? やっぱりキウイの味します?」 「うーん……あんまり。ちょっとだけでした。食べた後に、あ、キウイなんだーって言う感じで」 楽しそうなADと、そんなADにリラックスしている様子の京子。 二人の年頃の女性の背中を眺めながら、八剣は人知れず、今日何度目か知れない溜息を吐く。 表情こそ笑みを保っているものの、京子の内心はかなり冷や汗ものであるに違いない。 イメージとは正反対に甘いものが嫌いな京子は、スイーツの話をしているだけで胸焼けを起こす事がある。 だが“年頃の可愛らしい女の子”のイメージは、やはり彼女に甘味好きの趣向を強要する事になった。 他にも、今時流行、と言われる類の会話には、彼女はかなり頭を痛めている。 だから人と会話をする時、専ら聞き役に回って口数が減るのだ――――何を言えば良いか判らない上に、うっかりボロを出してしまわない為に。 「渋谷に美味しいシュークリームの店があるんですよ」 「そうなんですか?」 「カスタードと、チョコクリームと、キャラメルのクリームがあるんです」 「美味しそうですね。でも、渋谷かァ……」 考える素振りをしながら、恐らく彼女の本音は「うへェ……」と言った所だろう。 延々と続く甘味の話に、そろそろギブアップしたいに違いない。 しかし、此処で八剣が割り込むのも可笑しな話だ。 ADは仕事前の彼女をリラックスさせてくれようとしているのだし、彼女もそれによって安心している(と言う体だ)から。 「京子さんも大変ですね。行きたいお店も行けないんでしょう?」 「うん……でも、良いんです。お仕事も楽しいから」 「カッコいい〜!!」 少し首を傾げて微笑んでみせる京子に、ADは黄色い悲鳴を上げる。 全く、頭が下がる。 あんな彼女を見る度に、八剣はそう思わずにはいられない。 撮影所スタジオの扉を開けて、それじゃ頑張って下さい、と頭を下げると、ADはディレクターの下へと駆けて行った。 終始上機嫌な後姿にひらひらと手を振ってから、京子はスタイリストの待つ溜まり場へ向かう。 その彼女の腕を掴んで、八剣は京子を引き止める。 「八剣?」 振り返った京子の顔は、きょとんとしており、少し幼い。 これはイメージを保つキャラクターではなく、彼女が純粋に八剣の行動に驚いたからだ。 ぱちりと瞬きをする京子の頭を撫でると、京子は嫌がることなく、その手を甘受する。 「今月、何処かに休みを入れるよ」 「あ?」 八剣の言葉に、思わず漏れた素の声。 京子はそれに気付いて、慌てて口を手で隠す。 「……どうして? 平気だよ、私」 「いや。考えてみれば、この此処暫く、まともに休んだ日はなかっただろう?」 「そうだけど……」 休みにされても、と京子は口ごもる。 急なオフが出来ても、外出出来ない以上、ただ時間を持て余すだけだと言いたいのだろう。 それでも八剣はもう決めた。 「顔が見えないなら外に出ても平気だろう。俺が車を出すから、ドライブでも行こう」 「………」 「家でゆっくりしている方が良いなら、それでも良いよ。とにかく、何処かスケジュールを開けるから」 芸能人が男女でドライブなんて、お互いにその気がなくても、週刊誌の的になるのは目に見えている。 けれども八剣はマネージャーであるから、長距離の移動で同乗する事も少なくはない。 人ごみで正体がバレると大騒ぎになってしまう京子だから、何も不自然な事はなかった。 じっと見下ろす八剣の瞳が真摯である事に気付いて、京子は俯く。 どうにも、彼女はこういった好意による行動が素直に受け止められないらしい。 仕事のスイッチが入れば、キャラクターに合わせて喜んで見せたりするけれど、その実、彼女は戸惑いばかりなのだ。 目の前の人物の行動を、純粋な好意として受け取ってよいのか、どうにも悩む、疑う癖があるのだと言う。 しばらくの沈黙の後、京子は小さく頷いた。 「八剣がそうするって言うなら、そうする」 言葉を選んでキャラクターを守っているが、彼女自身の言葉で言うなら「勝手にしろよ」だ。 スケジュール管理をしているのは八剣なのだから、と。 スタイリストの呼ぶ声がして、京子は踵を返すと、慌てた足取りで溜まり場へ向かう。 スタイリストが用意した数着の衣装の中から、次の撮影のイメージに合うものを選ぶ必要があった。 先程は寝起きの爽やかさを重視して、全面的に白を推したが、今度は正反対だ。 夜の小悪魔性を表現したいとの事で、シースルーのあしらわれた黒のキャミソールやベビードールが並んでいる。 その中から選んだ数着を体と重ねてイメージの確認をしながら、京子はメイクアーティストを呼んだ。 朝と対比にしたいと言う注文から、メイクもいつもより少し濃い目にしたいとメイクアーティストが言うと、京子は素直に頷く。 ずらりと並んだ化粧道具の中から、メイクアーティストは何色も試し、特に口紅は慎重に選ぶ。 その様子をじっと見守る八剣に、カメラマンが歩み寄って話しかけてきた。 「凄いですね、京子ちゃん。あんなに若いのに、人に任せ切りにはしないんですね」 「……彼女のこだわりでしてね。自分でちゃんと考えたい、と。たまに怒られる事もありますが」 「ああ、いますね。若い奴が口出すな、なんて言う人」 「それはその人のこだわりだから、彼女も受け入れますがね」 「大人ですねェ」 感心した様子のカメラマンの言葉に、本当にね、と八剣は声に出さず呟いた。 彼女以上に大人らしく振舞う若者を、八剣は知らない。 それだけに、八剣と二人きりになった瞬間の彼女は、随分と子供子供しているようにも見えたりするのだが。 「ありゃあ大物になりますね」 「さて、どうでしょうね」 「ああ、大人しい子ですからね。大丈夫ですよ、皆にも凄く好かれてますから。まぁ、やっかむ人もいますけどね」 笑って言うカメラマンに、八剣も苦笑を返す。 と、そろそろ準備が終わりそうだと、カメラマンもセット前に行き、自分の商売道具をチェックし始めた。 女性スタッフに囲って貰いながら、京子は選んだ衣装に着替える。 着替え終わった後は、厚手の毛布に包まった状態で、メイクを施して貰った。 完成した“モデル”の京子は、先ほどの撮影の爽やかさとは違う、艶やかさを身に纏っていた。 赤い背景の撮影セットに入ると、ベージュ色のサテンの布をまとわせて寝転ぶ。 カメラマンの注文に合わせて、照明のレフ板が微調整され、京子の健康的な肌を妖しく照らす。 平時は活発な印象に爽やかなイメージが強い京子であるが、こうした変幻も彼女は作り出して見せる。 きつめの眦に、グロスを塗った紅い唇、たおやかに身をしならせてカメラを流し目で見つめれば、そこには“少女”ではなく“女”特有の色を宿した京子がいた。 “モデル”として、彼女はとても良い道を歩んでいると言って良い。 何処かで躓く事はあるだろうけれど、きっと支えてくれる人もいる。 何より、何があっても八剣は彼女の味方だ。 ――――――けれども。 “本当の彼女”は、どんどん息が苦しくなっているのは、誤魔化せなかった。 次 モデルの京ちゃんとマネージャー八剣です。 大人しい子として売り出されちゃって、一応それは守っとくけど、内心は男前の京ちゃんです。 「きゃあ!」とかうちの京子は絶対言わない。でも言わせたかった。その為の設定だといっても過言ではない(爆)。 八剣の後ろに隠れたりとか(怖がってる訳でもなんでもないけど)、八剣に庇われたりとか(それも本当は多分嫌)。 衝動で思いついたんですが、設定とかアレコレ書いてたら超楽しかった! そんな訳で、続きます。 ……所で、うちの八剣はいつも京ちゃんに対して謝ってないだろうか。 |