Seaside school Y 五日目は午前中は教師主催のレクリエーションが行われた。 ドッジボール、ビーチバレー、ビーチフラッグ、そしてインストラクター指導でのカヌー。 それぞれ好きな場所に散らばって、担当の教師から一連の説明と注意事項の後、皆解放的に遊びまわった。 龍麻が参加したのはビーチフラッグだ。 山間の田舎で暮らしていた龍麻には、初めての遊びである。 男女別れてのビーチフラッグには、龍麻の他に京子も参加していた。 参加理由はドッチボールは学校でもやっているし、ビーチバレーは此処数日で十分楽しんだから、と言う理由らしい。 暫く男女別れて競い合っていた生徒達だったが、やはりと言うか。 男子で龍麻の身体能力に勝てる人物がいないなら、女子では京子に勝てる者はいない。 ちなみに、これはドッジボールでもビーチバレーでも同じ事が起きる。 カヌーだけは、京子の協調性の無さがネックとなる所だろうが。 ほぼ単独首位を独走する二人に、普通なら非難が上がる所だったのだが、真神学園三年生の生徒はこんな事態には慣れっこだ。 寧ろこの状態を楽しむ術すら心得ている訳で。 「ね、京子と緋勇君が戦ったらどっちが勝つの?」 今獲ったばかりのフラッグを片手に握り締める京子に、遠野が言った。 京子はしばし沈黙した後、がりがりと頭を掻く。 純粋な身体能力で言えば、男女の差もあり、龍麻の方に分がある。 だが、かと言って決して京子が劣っているとか負けていると言う事ではなく、数値にした時にも微量な差しかないだろう。 実際に鬼退治部揃っての修練の最中、二人が試合をするとほぼ相打ち、決着付かずと言う事も多い。 あくまで二人は対等なのだ。 「どうだろうな。やってみるか?」 フラッグで肩を叩きながら、京子は女子の試合を観戦していた龍麻を見る。 龍麻は、二人の会話を聞こえてはいたものの、自分に話が振られるとは思っていなかった。 此方を見遣る恋人の表情が、にやにやと、何処か意地の悪い形を醸し出している事に気付く。 彼女は十分、やる気があると言う事だ。 龍麻は迷わず、頷いた。 「いいよ」 「よし」 京子に対して競争心がある訳ではないけれど、断る理由も無い。 龍麻と京子の対決と聞いて、回りは少々浮き足立っており、その雰囲気を壊すのも忍びなかった。 京子は、持っていたフラッグを砂浜に突き刺すと、20メートル離れたスタートラインに立った。 龍麻が隣に並ぶも、二人の距離は両手を伸ばしても重ならない程度に保たれる。 これは極端な接触妨害防止と、男女勝負であるという点を考慮しての距離だ。 二人がそれを意識する事はなかったが。 フラッグに背を向けて、砂浜に伏せる。 見守る生徒達が一様に息を詰め、場には緊張感が漂った。 その緊張を打ち破ったホイッスルが響いた直後、二人同時に跳ね起きて踵を返し、走り出す。 「行けーッ、京子ー!!」 「負けんな緋勇ー!」 「男のプライドが賭かってるぞー!」 「京子ちゃーん、頑張れー!」 秒数にして、二人の足なら十秒もかからない勝負だ。 その僅か一瞬に過ぎ去る時間の中で、ギャラリー達は最高潮に盛り上がった。 スタート地点からフラッグの道程は当然直線で、それを囲うようにギャラリーは集まっている。 龍麻と京子は、その中を一気に走り抜けて行く。 二人互いの動向を気にする素振りは一切なく、ただ一点、前方の勝利だけを追った。 龍麻は、一歩強く踏み込んで砂浜を蹴った。 平地を走るようにはいかなかったが、それでも加速する。 同時に京子も跳んでいた。 前傾姿勢で手を伸ばし、勝利の偶像を掴んだのは―――――龍麻だ。 勢い良く飛び込んだ所為で、二人揃って砂の山に頭から突っ込む。 直ぐに起き上がったのは京子で、口に入った砂を吐き出した。 「ぺッぺッ。ぐぁ〜〜〜〜〜ッくそ!」 砂浜を握り拳で殴りつけて、京子は心底悔しそうに唸った。 龍麻はのんびりと起き上がり、手の中のフラッグを京子に見せてへらりと笑う。 ムッとした京子の握り拳が、今度は龍麻の頭に落ちた。 「痛い」 「フン!」 そっぽを向いた京子は完全に拗ねていた。 龍麻の勝ちが気に入らないのは誰の目にも明らかである。 しかし、かと言って龍麻が手を抜いていたら、京子はもっと不機嫌になったに違いない。 単純な負けよりも、手を抜かれて勝利を得る方が彼女にとっては屈辱的な事だ。 逆も然り、故に二人の間に“手を抜いて相手を立たせる”と言う選択肢は存在しない。 砂浜に胡坐を掻いて拗ねる京子と、殴られた頭を摩りながら眉尻を下げる龍麻。 そんな二人にカメラのフラッシュが当たり、顔を上げれば、勿論其処にいたのは遠野だ。 「いや〜、良い絵が撮れたわ。ありがとね、二人とも」 「そりゃ良かったな。あー、クソ!」 「相当悔しいのね、京子……」 「当たり前ェだ!」 先ず勝負事に負けること事態が、京子は嫌いだ。 それが、本気の真剣勝負で負けてしまったから、悔しさも一入と言うものである。 そんな訳だから、負けず嫌いの彼女がこのまま黙って引き下がれる訳もなく。 「おい龍麻! もういっぺんやるぞ!」 言うや否や、龍麻の手からフラッグを引っ手繰って、規定の位置に戻す。 続いて龍麻のパーカーの襟を掴むと、無理やり立たせてズルズルとスタートラインまで引き摺った。 龍麻の意見は全く聞いていない。 その龍麻はと言うと、京子にされるがままで、拒否をする気配もなく。 京子がスタートラインに伏せると、先ほどと同じく距離を開けて砂浜に伏せた。 名選手同士のもう一勝負とあって、ギャラリーは先ほどよりも増えていた。 葵、小蒔、醍醐もギャラリーに加わり、動向を見守っている。 二度目のホイッスルが鳴り、二人はまた同時に跳ね上がり、踵を返して走り出した。 「京子ちゃーん、頑張ってー!」 「やっちゃえ、緋勇君!」 「緋勇君、カッコいい〜ッ」 「蓬莱寺さーん!」 ギャラリーの声が砂浜に響き渡り、その盛況たるや類を見ない。 ドッジボールやビーチバレーをしていた生徒達が試合を放り出して遠目に眺めるほどだ。 また、カヌーで波に揺られていた生徒達も、楽しそうだなとビーチを見ていた。 二人は平行して走っていたが、このままでは二の舞だと思ってか、まだ僅かに距離がある段階で京子が先に跳んだ。 京子が僅かに前に出た瞬間に、龍麻も砂を蹴って跳ぶ。 手を伸ばして、ビーチフラッグを掴んだと思われた直後、二人はまたしても砂浜に頭からダイブした。 巻き上がる砂塵に二人の姿が隠れ、ギャラリーは「どっちが勝った?」とざわめき出す。 決着の瞬間をカメラに押えようと、フラッグの横でカメラを構えていた遠野が真っ先に駆け寄った。 「緋勇君、京子、大丈夫?」 「うん……」 「いてててて……」 のろのろと二人で起き上がり、受けた衝撃をクリアにしようと、二人で頭を振った。 それから、勝負の決め手であるフラッグを確認して―――――それは、二人の手の中にあった。 「―――――オレが先だッ!」 「あ、ずるい」 数瞬の沈黙を打ち破り、京子が主張する。 主張し損ねた龍麻は、むぅと唇を尖らせた。 「オレの方が近かったんだから、オレが先に決まってんだろ」 「僕も近かったよ。…今のは審議か、引き分けじゃない?」 「引き分けなんざ面倒臭ェッ。そんなだったらオレの勝ちでいいだろッ」 「ムチャクチャだよ」 とにかく負けは絶対に嫌で、勝ちが欲しい京子である。 子供のような屁理屈を捏ねる恋人に、龍麻はどうしよう、と眉を下げた。 「アン子、撮ってんだろ。どっちだ?」 「………判んない」 「なんでだよ!」 「だってどっちも掴んでるんだもん!」 カメラの液晶を向けられて見れば、確かにフラッグには二人の手が届いた状態で撮影されている。 ギャラリー達の目はどうかと振り返れば、二人以上に結果が判らないと言う表情。 全く決着の目処が立たない上に、京子も京子で引っ込みの突かない性格だ。 自分が勝ったと言う証拠はないが、負けと言う明確な理由もなく、かと言って引き分けに持って行くのも悔しい。 京子は、まだ龍麻も持ったままのフラッグを、片手一本で折れそうな力で握り締めていた。 正直な話、龍麻としては勝ち負けはどちらでも構わない。 が、そうであると言ったら言ったで、京子は納得しないのだ。 「勝ちを譲られる」のが彼女は嫌いなのである。 そんな恋人を納得させる方法と言ったら、第三試合を始める以外にない。 「京、もう一回しよう」 「あ!? ンな面倒臭ェ」 「負けたら勝った人の言う事を聞く。ね?」 明らかに乗り気ではない様子の京子だが、続いた龍麻の言葉に眉尻が動いた。 日頃から吾妻橋相手に、昼飯を賭けて丁半遊びをしている京子である。 勝負事に賭け事が加わると、普通の勝負よりも乗り気になる事が多かった。 おまけに勝者の褒美が敗者への命令権となると、Sっ気のある彼女の悪戯心は容易く火が点く。 「命令はなんでも良いんだな?」 「うん。それでこの勝負は終わりにしようよ」 「よーし」 絶対ェ勝ってやる、と呟くと、京子はフラッグからようやく手を離して立ち上がる。 龍麻も遠野にフラッグを預け、再三のスタートラインへと戻った。 龍麻がスタートライン前に戻ってみると、ギャラリーの数は少し落ち着いていた。 そんな中で、京子が葵、小蒔、醍醐に、フラッグを指差して話しかけている。 三人は苦笑しながらギャラリーの輪を抜け、今は遠野一人が立っているフラッグ側へと向かった。 「審判があれだけいりゃ、誰か見えるだろ」 フラッグを2対2で挟んで、準備が出来たと手を振る葵。 それを眺めつつ、京子もこれで万全だと砂浜に伏せた。 この期に及んで判らない=引き分けでは詰まらないのだろう。 勝負事には何処までも貪欲に勝ちを求める恋人に、龍麻はくすりと微笑んだ。 並んで伏せる京子をちらりと伺えば、今までにない程に真剣な表情。 過去二回の勝負も本気であったが、今回は更に熱が入っているだろう。 龍麻も一つ呼吸をして、ホイッスルが鳴るのを待った。 三度目のホイッスル。 この勝負は、意外にも早い段階で決着が見えた。 五日目の夜は、これまでの夜とは一風変わっていた。 午前中をレクリエーションに費やし、昼食後の午後は一転してプリント授業。 一頻り海岸で遊んだ後であっただけに、せめて逆であったら良かったのにと嘆く生徒も多かった。 散々遊んで、腹一杯に食事をした後の授業風景は、居眠り生徒続出と言う有り様だった。 半分の生徒がうとうとと過ごしたプリント授業が終わると、生徒達はまた浮き足立ち始める。 ホテルの掲示板に張られていた一枚のポスターがその理由であった。 ホテルの周辺には、海と海岸沿いの道が長く続いているのだが、海とは反対側に回れば街並がある。 大都会の真ん中で暮らしていた少年少女達にすれば、こじんまりとした可愛い街風景だ。 其処で今夜、夏祭りが催される。 ホテルの人々は気を利かせてくれて―――と言うより、これも含めての臨海学校のホテル選びだったのだろう―――、希望する生徒達に浴衣を貸し出してくれる事になった。 男子生徒で借りる者は少なかったが、やはり女子生徒は、着る着ないを除いても興味が沸くらしい。 友達と揃って浴衣選びをし、夜になるとホテルの従業員に手伝って貰って着付けられていた。 華やかな浴衣を纏い、団扇を手に手に、生徒達は夏祭りへと繰り出した。 夏祭りにも浴衣にも興味のない生徒は、早々に自分の部屋に戻って好き好きに過ごしている。 龍麻は、夏祭り参加組の一人だった。 陽光が落ちて、街灯の代わりに飾られた行灯に火が灯り始めた頃、龍麻はホテル玄関を出た。 同じようにホテルを出た生徒達は、皆散り散りになりつつ、ホテル裏の舗装された小道を通って街へと向かう。 小道を抜けて拾い通りに出れば、其処には出店が立ち並び、祭囃子の鳴る道沿いをめいめい楽しむ事だろう。 龍麻もその枠に加わる予定だったのだが、それはもう少し後の話になる。 玄関を出た龍麻であったが、其処から先へは進もうとせず、玄関横の壁に背を預けていた。 程なくすると、醍醐もホテルを出て来て、同じように足を止める。 「涼しくなったな」 「うん」 醍醐の言葉に、龍麻も頷く。 二人の手には、祭りへ向かう生徒達と同様に、団扇がある。 しかし陽が沈んでから風が吹き始め、昼間はうだる暑さだった外気が、今は心地良い温度に下がっていた。 団扇はもう必要ない、とも思えるような涼しさだ。 「もう少し蒸し暑くなるかと思ったんだが」 「お祭りに行ったら、なるんじゃない?」 「…そうだな。かなりの人手になりそうだ」 祭りは街ぐるみの規模だから、屋台を出している人も、その客も、かなりの人数になる。 ホテルに泊まっている生徒達の数だけでも、三分の一から半分は祭りに向かっているらしい。 更には祭りの終盤に花火が上がるとの事で、この花火は街一番の老舗の花火屋が丸一年をかけて製作したものを打ち上げると言う。 全国的な知名度こそないものの、花火好きと周辺の街では有名な出し物で、皆これを目当てに集まるそうだ。 花火目当ての客等は、今朝から場所取りに勤しむ程の人気振りであった。 それだけ人が集まれば、ホテル前の涼しさも感じられなくなるだろう。 第一、吹き抜けていくこの風は、ホテル前の海あってのものだ。 海岸線から吹く風を妨げるものがないから。 ―――――それから、其処で暫くの間、特に中身のない話を繰り返していた。 祭りへと先行き向かうクラスメイト達をぼんやりと眺めながら。 二人の前に待ち人達が現れたのは、二人が玄関前に立ってから約十分後の事だ。 「やっほー、お待たせッ」 「待たせてしまってごめんなさい」 「駄々捏ねてばっかだったからさァ」 遠野、葵、小蒔の声がして、龍麻と醍醐は振り返る。 振り返った先にいたのは、ホテルから貸し出された浴衣に身を包んだクラスメイト達。 髪をアップに結び、白い生地に青のような緑のような、青碧色(せいへきいろ)で枝垂桜を描く浴衣を着込んだ葵。 いつもは自然に流したままの髪を項で括り、薄萌黄色(うすもえぎいろ)の生地に、青・赤の朝顔を描いた浴衣姿の小蒔。 白地に退紅色(あらぞめいろ)のぼかしを飛ばし、コスモスの花束を描いた浴衣を着た遠野。 それから―――――彼女達に隠れるようにして、肩を縮篭めている少女が一人。 肩までの髪を中ほどの高さに結び上げ、黒地に大きな牡丹の花が、花弁を散らしながら大胆にあしらわれている浴衣を着込み、団扇の代わりに紫色の太刀袋を抱えた、京子。 京子は、遠野と小蒔に手を引っ張られながら此処まで来たようだ。 俯いた彼女の表情は龍麻には伺えないが、それでも真一文字に噤んだ口元は見えた。 あの口の中では、きっとぎりぎりと歯が鳴っているに違いない。 そんな京子の事など気にせず、小蒔と遠野は滅多に着ない浴衣にテンションが上がっている。 「ね、どうかな? 似合ってる?」 「はッはいッ! とっても、その……きれい、です…」 小蒔の問いに、醍醐がひっくり返った声で、次いで消えそうな声で答える。 しっかりとそれを受け取った小蒔が照れ臭そうに笑うから、醍醐の顔は一気に沸騰した。 「遠野さん、可愛いね」 「えへへ。ありがと、緋勇君」 「美里さんも綺麗だよ」 「ありがとう」 葵の浴衣―――と言うか、着物姿は以前も見た事がある。 その時、彼女は藍色の落ち着いた色合いの着物を着ていた。 浴衣はそれとは正反対で、素朴だが彼女の清楚な印象と合う。 小蒔はいつもの明るさと快活さが鮮やかな色彩に、遠野はあどけない表情にコスモスのピンクが似合っていた。 誰が合わせたのか、龍麻は知らないが、上手い選び方だ。 三人をぐるりと見渡して、最後に龍麻の瞳は彼女へと向かう。 逃亡防止か、遠野に手を握られたまま、俯いている恋人へ。 視線を感じてか、ようやく上げられた京子の顔は、真っ赤になっていた。 「………満足か、この苺バカ」 目を合わせるなり、京子は地を這う声で呟いた。 龍麻はそれに恐れる事もなく、笑みを浮かべて京子の立ち居を眺める。 「満足かって聞いてんだよ」 「うん」 「……けッ」 見詰める龍麻の視線から逃げるように、京子はそっぽを向いた。 その横顔は赤色で、彼女が恥ずかしがっているのは誰の目にも明らかだ。 赤い顔の京子と、それを見詰めて柔らかく笑む龍麻を、遠野はしっかりカメラに押さえて、 「もう大変だったのよ。浴衣選びから何から、全部」 「そうなんだ」 「そうなの! 絶対こんなの着たくないって。ねー、桜井ちゃん、美里ちゃん」 「うんうん」 遠野が同意を求めれば、小蒔は大きく頷き、葵は苦笑する。 「もっと可愛いのあったのよ。カラフルなのとか、ピンク色とか」 「そんな薄ら寒いモン着れるかッ」 「って、こればっかりなんだもん」 「でも、この浴衣も綺麗で京子ちゃんに似合ってると思うわ」 「そうだけどー」 もっとさァ、と言う親友に、葵は困った顔で笑うしかない。 小蒔の言う事も判るが、京子がこれでもかと言う程嫌がるから、彼女は間を取り持つしかなかった。 小蒔は更なる同意を求めて、遠野に向き直り、 「やっぱりさ、浴衣選ぶ時にも緋勇君にいて貰えば良かったんだよ」 「そっか、そうよね。だって勝ったもんね、緋勇君」 勝った、とは昼間のビーチフラッグ勝負の事だ。 これに龍麻が勝ち、京子が負けた為に、彼女は今夜の夏祭りに浴衣を着て赴く事になった。 勝った方が負けた方になんでも命令が出来る、と言う賭けの元、行われた三回目の勝負。 どうなるかと息を呑んでいたギャラリーが見守る中、開始直後に命運は分かたれた。 前の二回と同じようにスタートを切った龍麻に対し、京子は跳ね起き立ち上がるまでは早かったが、駆け出した瞬間に砂浜に脚を取られて転倒した。 直ぐに起き上がって走り出したが、間に合わず、龍麻の勝利と相成った。 負けた事実は気に入らなくとも、この勝負で勝っても負けても終わり、と約束していた京子だ。 足が縺れて転んだのも含め、今日の自分には運がないと諦める事にし、ようやく負けを受け入れた。 勝負前の約束通り、京子は龍麻に何を命令するのかと問うた。 龍麻はしばらく考えていたが、やがて今夜の夏祭りと思い出すと、浴衣で一緒に行って欲しいと言った。 口振りは“お願い”だったが、勝負後の京子にとっては“絶対の命令”である。 京子は判り易く顔を顰めたが、仕方なく了承した。 夜になって仮病でも使おうかと思い始めていた京子だったが、約束は約束だ。 逃げたい気持ちはあるものの、反故にするのも“逃げた”と思われるのも気に入らなかった。 ついでに小蒔と遠野が京子に浴衣を着せる事に何故かやる気を出しており、この二人と葵によって強制的に着付けさせられる事となった。 こうして、京子の浴衣姿が出来上がったのである。 滅多に見れない、ひょっとしたらもう見る事も出来ない、京子の浴衣姿だ。 惚れた弱みを差し引いても、龍麻はこれにして良かった、と思った。 「じゃあ、行きましょうか」 葵の言葉に、揃ってホテルを離れていく。 他の生徒達と同じように、ホテル裏の街へと続く小道へ向かった。 「焼き蕎麦とリンゴ飴あるかなァ」 「あたし綿菓子食べたーい」 「あの、桜井さん。食べたいものがあったら俺に言って下さい。俺、出しますから」 「いいの? じゃあ一緒に食べよっか」 「ええ!? いや、俺は、その、桜井さんに、」 「良かったね、醍醐君」 醍醐を先頭にして、葵、小蒔、遠野が横一列に並び、そのまた後ろを龍麻と京子が歩く。 京子は明後日の方向を向いており、龍麻が顔を覗き込もうとすると、逃げるように顔を背けていた。 見せようとしない彼女の顔が赤いのは、耳と、髪を結び上げた所為で露になっている首を見れば一目瞭然だ。 「ねえ、カキ氷の味、どれが一番好き?」 「あたし苺!」 「私は抹茶かしら」 「ボク、ブルーハワイがいいな」 「俺は…みぞれ、ですかね」 「緋勇君はやっぱり苺よねー」 肩越しに振り返って言われて、龍麻は微笑む。 確かに、子供の頃からそればかり食べていたから。 「京子は?」 小蒔が問い掛けると、京子は答えなかった。 明後日の方向を向いたままで、前にいる仲間達を見ようともしない。 まだ機嫌を損ねているらしい、と仲間達が思い至るまで、時間は掛からなかった。 京子は甘いものはあまり好きではないから、好んで食べるカキ氷は無いかも知れない。 それよりは、とうもろこしや焼き鳥など、確りと腹に入りそうなものを食べるんじゃないかと、龍麻は思う。 小道を抜けると、大きな通りに出た。 其処からもう祭りの雰囲気は一挙に濃くなる。 道の両脇に立ち並ぶ出店には、クラスメイトは勿論、一般客も足を止めて寄せている。 射的や金魚すくいには子供達が夢中になっていた。 隙間を縫うように、祭りの中心になっているであろう方角から、太鼓の音も聞こえて来る。 食べ物の出店の傍らを通れば、焼いた醤油の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、手招きする。 あれも食べてみたい、これも食べてみたいと言う小蒔を、葵が苦笑しながら宥めていた。 ……京子は静かだ。 不機嫌だから黙っている、と言うには少々静か過ぎる程に。 (……同じだ) 隣を歩く京子をちらりと見遣って、龍麻は思った。 沈黙したままで歩く彼女は、一昨日の夕暮れの中で見た印象とよく似ている。 よく似ていて、あの時よりも、何処か遠い。 顔の見えない彼女が何を思っているかは、龍麻には判らない。 判らないけれど、このまま彼女を遠く感じるのは嫌だった。 だから、何も言わずに、龍麻は京子の手を握った。 「――――――ッ」 途端、ビクンと京子の肩が跳ねる。 振り返った彼女は、此方が驚くほどに瞠目していた。 京子は自分からのスキンシップは頓着しないが、相手から積極的に触れられる事を拒む傾向がある。 詳しいことを龍麻はやはり知らないが、それは随分と彼女の心理に染み付いたものらしい。 龍麻と京子が恋仲になっても、彼女はやはり、龍麻からの接触に聊か警戒を抱く節があった。 龍麻は、それに気付かない振りをする。 彼女に自然に受け入れて欲しいから、何も言わずに、ごく自然な事であるようにと彼女に触れる。 京子は暫く瞠目していたが、自分の手と龍麻の手が繋がっている事に気付くと、一つ息を吐いた。 そして、自分がらしくない行動をしたと自覚しているのだろう、がりがりと頭を掻く。 「…歩き難ィよ。離せ、バカ」 「いや」 「手前ェな」 「僕が勝ったから」 昼の勝負を持ち出すと、京子は悔しそうに歯を噛み、そっぽを向いた。 手は繋いだままで。 「髪、結んでもらったの?」 「違ェ、あいつらが勝手にやったんだ」 不精にしている、肩までの長さの京子の髪。 今は中ほどの高さで結び上げている為、いつもは髪の隙間からしか見えない項が露になっている。 後れ毛が跳ねているのがなんだか可愛い。 カラコロと音を立てる下駄履きは、浴衣の色に合わせたのだろう、黒に薄紫の鼻緒と言う仕様だ。 前を歩く小蒔や遠野は、不慣れで転びそうな様子が時々見られるのだが、葵は勿論、京子にもそれはなかった。 「あいつら、無理やり結びやがって。人の髪で遊ぶなってんだ」 ブツブツとクラスメイトの文句を呟く京子は、いつもの彼女だ。 「可愛いよ」 「へーへー。ありがとさん」 明らかに本気と受け取らない京子に、龍麻は微笑む。 そんな彼女が、龍麻のよく知る京子だから。 遠く近く鳴り響く祭囃子に、繋いだ手が、少しだけ強く握られた気がした。 ≫ 京ちゃんは赤色が似合うとは思うのですが、和服で華美なのは好かない気がする。 出来れば地味〜にしときたい。黒とか藍とかで、柄無しの。 うちの京ちゃんは、夏祭りや着物など、父ちゃんや師匠を思い出すものを見るとボーッとしてしまうようです。 結構重度のファザコンですね、コレ……本人は全く無自覚ですけど。 |