暗い、昏い、この世界で
少女は変わらぬ空を見る

全てを忘れて、空を見る



全てに忘れられて、空を見る























天の塔 : 第一節




























色のない壁。
色のない天井。
色のない床。

色のない布。
色のない石。


気がついたら、此処にいた。
記憶の始まりは、此処だった。







色のない壁に、一箇所だけ、切り取られた部分がある。
其処には透明な壁が嵌め込まれていて、其処に映る景色だけが他とは違う。
黒漆を染み込ませたような色があって、ぽつりぽつりと白い点が浮かんでいる。

その黒漆を『夜』と言い、白い点は『星』と呼び、壁を切り抜いて嵌め込まれた透明な壁を『ガラス』、及び『窓』と呼ぶのだと、京子が知ったのは、此処で初めて目覚めて随分経った頃だった。
この“随分”と言うのも明確な時間ではなく、そう言えば今まで気にしてなかったな――――と他人事のように思うくらいの時間があっただけの事だ。


窓から見える夜と星は、『空』にあるのだと言う。
手が届きそうな程に近くにある空は、決して掴む事は出来ないらしい。
それが本当なのか、掴みたいとも思わず手を伸ばしてもガラスにしか届かないから、結局の所、京子には真偽が判らない。



自分が目覚めた時に包まっていた、色のない布。
これは『布団』で、寝起きする為に使っていた台は『ベッド』。
頭を乗せる小山は『枕』。

色のない部屋の真ん中には、『椅子』と『テーブル』がある。
それらの使用用途はなんとなく判っていた京子だったが、名が判らなかった。




取り巻く物質の名を京子に教えたのは、八剣と言う男だった。

京子に『京子』を教えたのも、彼だった。








京子は記憶がない。
此処で過ごした以外の記憶がない。





生きる為に必要な知識―――食事を採る、眠る、歩く―――はあったけれど、それ以外がない。
八剣の事も記憶にない、他の事も、自分自身の事さえも京子の記憶にはない。
だから、八剣が教える事がなければ、京子は己が言葉を発することが出来る事さえ忘れていたかも知れない。
八剣と言う存在がなければ、言葉と言うものに京子は接することなく、その存在にも気付いていなかっただろう。
八剣が何かと話しかけてくるから、自分も喋れるのだろうと認識したのが漸うであった。

けれども、京子は八剣と会話をしたことはなかった。
喋るのはいつも八剣の方で、京子はそれを聞き流すように聞いているのが常。
そんな彼女にも構わず、男は傍にいる限り、何かと喋りかけてきていた。


会話をしないのは、八剣が嫌いであるとか、そう言う事ではない。
そもそも、“嫌い”と言う感情が何を示して言うものかが京子には判らなかった。

判る範囲で言えるのは、別段、この男と『会話をしたくない』と思っている訳ではないと言うこと。
会話を『しなければならない』必然性がなく、また、八剣も答えろと言わないから、此方から喋る必要がないだけ。
故に京子は、自分が喋れるのだろうと言う認識はあっても、言葉と言える音を発したことは記憶になかった。





―――――この八剣と言う男は、比べる対象がないのでこう言っていいのか判じかねるが、奇妙な男であった。




八剣は幾らかの間を置いて、京子のいるこの部屋にやって来る。
食事を運んでくるのだ。

それを京子が食べている間中、八剣は傍にいて、とりとめのない話をしている。
京子が聞いていようといまいと、関係なく。


食事が終わると、もう少しの間話をして、食器を持って部屋を出て行く。
その時に使われる扉は、内側からは開かずに、どうやら部屋の外で誰かが開け閉めしているらしい。

ちなみに、京子は何度かその扉を開けてみようと試みたが、結局ビクともしなかった。
特に外に出てみたかった訳でもなかったから、気にしなかった。
そういうものなんだと言う感想がぼんやりと浮かんだ。



八剣が部屋を出て、窓から見える夜の色が、ほんの僅かずつ変化して。
それが時間が経った証である事に気付くまで、京子は随分と時間がかかった。
色の変化が明瞭ではなかったからとも言える。



真っ黒が藍色へ、藍色が深い青へ。
変わる頃に、八剣は再び食事を持って部屋にやって来る。
その頃になると京子の腹も鳴り出すから、多分、良い頃合なのだろう。

そして八剣が部屋を出て、深い青が藍色へ、黒へと変わる頃。
八剣は同じ動作で部屋にやって来る。



京子は、記憶の始まりまで遡っても、この男以外の存在を見た事がない。
似たような気配は扉の向こうでウロウロしているのを感じるが、姿形を確認した事はなかった。



八剣は、自分の世話をしている。
多分、そう言っていいのだろう。


京子は礼も言わなければ、会話、挨拶さえもしない。
そんな奴の世話なんてして、一体何が楽しいのか、京子には判らない。
八剣は大抵薄い笑みを口元に透いていたけれど、それは楽しいからと言う表情ではないだろう。
顔の形がそれで固定されている、そんな印象だった。

普通ならつまらねェんじゃねえか――――と、京子はなんとなく思った。
思った理由は判らないが、そういうものなんじゃないだろうかと感じた。


誰かに言われての行動か。
それにしては、無理も何もなく、飄々としてはいるが自然のように見えた。
やはり此処でも比べる対象がないから、それが正しいかは判然としないけれど。

でも聞く気にもならない。
それくらいに、京子にとっても扉の向こうからやって来るのが八剣であるのが、当然のようになっていた。








京子の世界は、この狭い部屋の中で完結していた。
始まりから、現在まで、全て。



色のない壁。
色のない天井。
色のない床。

色のないシーツ。
色のないベッド。
色のない椅子。
色のないテーブル。


刳り貫かれた空と言う色。



何もない自分。
奇妙な男。










それがある日、ほんの少しだけ、動き始めた。





































(―――――――なんだ?)






目を覚まして、京子はしばらくベッドの上から動かなかった。
目覚めた瞬間の格好のまま、ぴったりと停止した。

体は動かなかったが、頭の中がぐるぐると動き出す。
此処で目覚めた最初の瞬間以来の動きであった。






(何か見た)






漠然とした感覚で、京子は胸中で呟いた。


何かを見た。
何かを。

何で?
何処で?


繰り返し自問してみるが、判らない。
しかし、見たものは確かに未だ脳裏に残っていた。






(何かが見えた。何か見た)






起き上がると、体を覆っていたシーツがするりと滑り落ちた。

その落ちたシーツを手繰り寄せて、じっと見つめる。
目の前にある布は、いつもと変わらぬ、色のないもので、





(違う)






これじゃない。
脳裏に残ったものを思い出しながら、そう思った。

しかし何を見たのかが判らない。
見たものは脳裏に残っているが、それが何かを知る為には、京子は知らないものが多過ぎた。
見たものを何と呼ぶのか、それが何を意味するものなのか、全く知らなかった。



京子は、考えた。
珍しく考えた。


いつもはあまり考えない、考えても常に答えが出ないからだ。
世話をする男が話した事しか知らない(それも殆ど朧だ)から、一人で考えても一致する事柄が極端に少ない。
ならば考えるだけ腹が減るだけだと、いつしか考え事をすることも少なくなった。

京子が考えるのは、精々、次の飯はなんだろうとか、その程度のことだ。
それも案外どうでも良くて、ぐるぐると考え込む程思う事はない。


それでも考えた。






(何を見た?)






ベッドの上に座ったまま、天井を仰いで考える。

そうしていると、扉の開く音がした。
振り返らなくても判っている、入ってくるのは世話をする男―――八剣だ。







「どうしたんだい? 京ちゃん」






京ちゃん、とは京子のことだ。
この二つの呼び方が自分を示すことを教えたのは、この男だ。
君の名前は京子だから、俺は京ちゃんって呼んでるんだ、と。

なんとなくその呼ばれ方は好かなかったが、呼ぶなと言う程の嫌悪感もなかったから、そのままにしている。
呼ばれた時に眉根が寄るのは否めなかったけれども。


カチャリとテーブルの方から音がした。
いつものように、食事が用意されたのだろう。
しかし、京子は其方を見ていなかった。






「珍しいね、考え事か」






ゆっくりと近付く足音。
やがてそれは、ベッドの横で止まった。

天井を見上げていた京子は、何気なく八剣の方へと目を向ける。
此方を見ていた瞳とぶつかったのは、言うまでもない。


八剣はいつもと変わらぬ笑みを浮かべた顔で、言った。






「何か夢でも見たのかな」






聞こえた単語に、京子の頭が僅かに揺れた。
八剣はそれに気付いたのか、気付かなかったのか――――目を細めて見せて、くるり、背を向けた。
テーブルの方へと戻ると、二脚ある椅子の片方に腰を下ろし、冷めちゃうよ、と食事を促した。

腹は減っている。
寝ていても、やっぱり腹は減るのだ。


でも、京子は動かなかった。







(夢)







あれは、夢か。
夢を見たのか。

そうか。
夢、と言うのか。


見覚えのないあの風景は、夢と言うらしい。






(何か見た――――夢を見た)






この感覚の経験は、今までにも何度かあった。
目覚める直前まで、何かが起きていたような気がして、その情景が朧に脳裏に残るのだ。
今までのあれも、恐らく夢と言うものなのだろう。



初めて気にした。
初めて考えた。


どうしてか判らないけれど、気になった。



その意味は判らなかったが、唯一言えることは、今まで見たどの夢よりも、先の夢は鮮明に頭に残っていると言う事だ。






(何かがあった。何かいた。……なんだ?)






自問しながら、起き上がる。
自分でも驚くくらい、頭がぐるぐる回るのが止められない。


テーブルには近付かず、窓へと歩いた。
細い、京子の肩幅分程度しかない窓だったが、ガラスは一度も曇ることなく、空を映し続けている。

ガラスに手を当てるとひんやりと冷たく、特に指先が一番冷たさを感じる。
それに構わず、京子は漆に染められた夜を見た。






(違う)






見える空と、頭に残った景色は、やはり此処でも一致しない。


あったのは何だった。
いたのは何だった。
形状や色は判るのだけど、その形状や色をなんと呼ぶのか、京子は判らなかった。

この窓のガラスに映る自分とも、黙して自分を待っている男とも、違う形。
色もそう、漆黒とも藍とも青とも違う―――ああ、青には少し似ているかもしれないけれど、やっぱり違う。



どうしてだろう。
忘れられない。

何も覚えていないのに、あの夢だけが忘れられそうにない。







(なんで忘れられない?)







食事もそっちのけで、ずっと考え続けているのは何故。
いつも気にしない夢を、いつまでも思い出し続けているのは何故。

夢の景色を探そうとしているのは、何故。








(夢を見た。夢で見た。何か。何か見た)








何か見た。
何かを見た。
見たものは、なんだ。

あれは、なんと呼ぶものだ?



八剣に聞けば判るだろうか。

八剣は、京子の知らないことを知っている。
京子に、此処にある物質の名を教えたのは、八剣だ。
京子に『京子』を教えたのも八剣だ。


けれど、なんと聞けば良いのだろう。
夢の景色を伝える為の情報を、京子は持っていなかった。
どんな形をなんと呼ぶのか、どんな色をなんと呼ぶのか、何と比べて何と言うのか、判らなかった。









(あれは、なんだ――――――?)











































じっと窓の外を見つめる少女。
彼女の姿だけをこの目に映し続けて、幾年月が流れただろうか。

一番最初まで遡ろうとすれば、自分が彼女と出逢った瞬間まで戻らなければならない。
十年二十年のものではなく、気が遠くなるほどの長い長い歳月であった。
それは決して、八剣にとって苦を齎すものではなかったと言っていい―――― 一部を覗いて。


だが、最近は判らなくなって来ている。



目の前の少女が、こんなにも静かであると言う事が、酷く胸に突き刺さる。
騒ぐでもない、怒るでもない、声を発することすらなく、笑わないことが八剣の心までも重くする。



何もかもを奪われ、自分自身さえも忘れた少女。
名前さえも持ち続けること叶わず、彼女の心はまるで真っ白な赤子のようだ。

それをいつまでも白のまま、何の色にも染めずにいるから、彼女はずっと笑わない。






(そう望んだ)






笑わないことを望んだのではない。
けれど、結果的にそうするようになる事を自分は望んだ。

彼女の痛みが消えればいいと。


そして結果、彼女は痛みを忘れ消し去り、嘗ての己自身も失った。




判っていた。
こうなることは判っていた。

判っていて、自分はこうする道を選んだ。
その後、ずっと彼女の傍にいる事も、それ故に選んだ。
他に自分が出来る事が見付からなくて。





記憶とは、その人物を形成する為に必要不可欠なものだ。
物事が起きた時間、場所、起きた時の感情を記憶し、感情の記憶は後の人物の性格に影響することもある。
生まれて、生きて、育まれて来た記憶を根こそぎ奪えば、その人物の成り立ちも奪う事になる。


自分が何を以って怒り、何を以って泣き笑い、どうしてその感情を覚えて来たのか。
その一切を、彼女は失ってしまった。

抱えた痛みや苦しみの記憶を忘れ、それと共に生まれた喜び、悲しみ、怒りを忘れた。
その瞬間、彼女は今までの自分を永遠になくす事になった。







(そう、望んでいた)






彼女が苦しまないなら、それも良い。

その時は、そう思っていた。
ただ彼女が人知れず苦しむ姿を見たくなかったから。






(……勝手だね)






彼女がそう言った訳じゃない。
自分が勝手にそう望んで、勝手にそうした。



彼女は、もう苦しまない。
もう笑わない。


此処に、彼女の感情を震わせるものはない。
あるのは白い壁、白い天井、白い床、白いベッドに白いシーツ――――椅子もテーブルも同じ。
食べる為の食事に緑や赤があるだけで、他は何もない。

だから彼女は苦しむことを知らないし、何かに驚いたり笑ったりする事もない。
全てから隔絶されたこの場所で、延年生きている限り。






窓の外を見つめ続けていた京子が、振り返った。
夜の仄白い光に照らされた少女の顔は、酷く頼りなく、か弱く見えた。


薄布に胸部と秘所だけを覆われた格好の京子。
以前から細身であることを八剣はずっと知っていたが、最近、特に細くなってきたように思う。
動き回るのも最低限しかないから、筋肉が削げ落ちているのだろう。

食事の為に此方に歩み寄る足を見れば、やはり細く、小さく、白い。
以前はもっと日焼けをしていたのに、今はその面影さえもない。




椅子を引いて其処に収まると、京子は食事を始めた。

記憶の一切を失っていても、生活の為に必要な最低限の知識は残っていた。
食べ物の名前は恐らく知らないだろうが、食べられるものである事は認識しているらしく、食事をする事に躊躇のような仕種は一度も見られない。






「考え事は片付いた?」






先ほど、部屋に入って来た時に見た様子から、珍しく何か考えているのだと思った。
瞳は相変わらずぼんやりとしていたから、思った―――と言うよりは、そうであったらいい、と言う願望だった。
苦しむことから解放された代わりに、全てを忘れたこの少女の琴線が、何かに触れていたらいい、と。



最近は、そう思う事が増えた。
何か変化はないだろうか、と。


彼女の琴線に触れる事柄を、この部屋から全て排除していながら、思うようになった。
何か彼女の感情を呼び起こすことはないだろうかと。

矛盾した思いが、彼女の虚ろな瞳を見る度に、浮かんでは消えてを繰り返す。






(そんな事は、都合が良すぎる)






昔見た、彼女の笑顔が恋しいのだ。
自分で奪っておきながら。


彼女が笑えば、またいつか傷付き苦しむだろう。
傷付き悲しむことがなければ、もう笑うことはないだろう。

一人、勝手なジレンマの中に苛まれている。




食事をしながら、彼女は一度も、不味いとも美味いとも言った事がない。
味が気に入らないようなら言ってね、と何度か告げた事はあるけれど、そうなった事は一度もない。

ただぼんやりとした瞳で、彼女は言葉を発することなく、日々を過ごしていた。









(今から君の笑顔を望むなんて、それは単なる逃げでしかない)









少女の笑顔を望みながら、虚ろな少女と毎日顔を合わせる。
それは、自分の犯した罪の罰でもあった。




























第二節

やっちゃった……超マニアックな設定のパラレルです。
読んでみたいと言って下さった方がいらっしゃったので、調子に乗りました(コラコラ)。

京ちゃんがびっくりする程に無気力で大人しい……ι
この話の八剣には、死ぬほど色々考え込んで貰います(爆)。


思いついたのが一年以上前、読んで見たいと拍手でメッセージを頂いたのも一年前……
その頃にはもう書き始めていたのに、タイトルが決まらなくて、今の今までアップを見送っていました(そんな理由…!)
ようやくアップに漕ぎ着ける事が出来てホッとしてます。

完全にオリジナルのパラレル世界(現段階では京ちゃんなんて原作見る影もない(滝汗))ですが、お付き合い頂けましたら幸いです。