夜の世界 : 第二節












沈黙を破ったのは、龍麻の方だった。







「………聞いていい?」







主語を抜いた言葉であったが、八剣は意味を聞き返さなかった。
二人の間で、主語を抜いて通用するような共通の話題は、たった一つしか存在しない。


返事をしない八剣を、龍麻は拒絶の意ではないと取った。

京子の前では飄々としてよく喋る姿を見せるこの男は、それ以外が相手となると淡白な面がある。
必要以上に興味を惹かれない限り、彼女を相手にするように饒舌に喋る事はしなかった。
龍麻は、それに該当する。






「どうして、ついて来てくれたの?」
「京ちゃんが行くって言ったからね」






問いの答えは簡潔なもので、それは八剣の本心だ。

八剣は常に京子の意思を優先する。
彼自身の役割がそうであり、それ以前に、自らが彼女に対してそのように接しているのだ。
八剣にとって彼女は絶対的な存在であり、それは八剣自信が否定しない限り覆らない。


八剣のその言葉を、龍麻は疑わない。
それが判らないほどに希薄な関係ではない。



しかし、龍麻の疑問点はそれだけでは解消されない。






「京が外に出たいって言って、僕は京を連れ出したけど、君なら強引にでも連れ戻すことも出来たと思う」






八剣の実力を、龍麻は知っている。
武を交えたのはつい数時間前が初めてのことであったが、彼の剣技を龍麻はずっと以前から知っていた。

二人が“天の塔”を後にして、八剣と向かい合った時、龍麻は一度構えた。
本気の八剣と討ち合って、分で言えば龍麻の方が有利と言えば有利だったが、八剣が闘争を避けて京子のみを浚うことは可能であった。
今の京子は恐らく抵抗しないだろうし、八剣が後少し時間を稼いでいれば、塔の警護の者があの場に集まっただろう。

だが、八剣はそれを選ばず、あまつさえ龍麻と京子に同行すると言う。







「……どうして?」







龍麻の視線は、ゆらゆらと閃く火に向けられている。
同じく八剣も、龍麻と顔を合わせようとはしていない。



少しの間沈黙があって、八剣の口から溜息に似たものが漏れた。






「正直言って、迷ったよ。今も迷ってる」






俯いた八剣の表情を、長い前髪が隠した。






「強引にって言う野蛮な方法は好きじゃないが、場合によってはそれも考えた。……今もね」






すぅすぅと寝息を立てる京子を見遣って、八剣は続ける。




籠の中の鳥は、外を知らなければ飛び出していく事はない。
けれど、一度外を知ってしまったら、外界への憧れを強くする。



全ての記憶を失って、彼女の始まりは小さな部屋の中、何も持たないゼロの自分。
小さな世界で彼女の世界は完結し、何が外にあって何が其処にないのかも知らない。
外の記憶を持たないから。

だから彼女は、外に出たいと言わなかったし、何故外に出ては駄目なのかも問わなかった。
小さな部屋が始まりであり終わりであるから、それ以外の世界を知らないのが当たり前だった。


それが今日、砕かれた。

外から来た来訪者によって、彼女は外界へと導かれた。
開け放った扉の向こうへ連れ出す手を、彼女は取った。
その先に何が待っているのか判らなくても。


だから連れ戻すのなら、今のうちだ。
強引でも無理やりでも、それが彼女の自由を奪うとしても、連れ戻すのなら今が最後の好機と言える。

外を知れば知るほどに、あの小さな部屋に何もなかったことを京子は知るだろう。
世界に溢れるものを感じ取ったら、失わない代わりに何も得ることのない小さな部屋で、彼女はきっと今までのように大人しく過ごしている事はない。
元来、彼女はそういう性格なのだ。






「迷ってるよ。外に出て、また彼女が傷付くんじゃないかと思うと――――連れ戻すべきじゃないかって。でもね、」






全てを失い、自分自身を喪って、彼女は痛みや苦しみを忘れた。

同時に、笑うことも。






「……随分長く、京ちゃんが笑っているのを見ていないんだ」






嘗ては忙しない程に表情を変えて、笑ったり怒ったりしていたのに。
今日のように、兎を見つけて目を丸くしたり、炎を不思議そうに眺める表情さえ、八剣は随分久しぶりに見たものだった。


あの狭い世界に、彼女の感情を揺り動かせるものはなかった。
唯一可能性を持っていたのが八剣で、八剣は自らその役割を放棄した。
感情を呼び起こしたが為に、再び彼女が苦しむことがないように。

そうして小さな世界でぼんやりと、無気力に過ごす彼女を、何十年も見つめて来た。



自分が彼女をそんな風にした。
傷付かないように、苦しまないように――――笑うことのないように。

だからこれは、自分の勝手な願望であり、エゴであると、判っている。








「見たいんだ。彼女の笑った顔を」








自分で奪っておいて、何十年も経って、ようやく思い出した。
彼女の笑顔が何よりも愛しく、大切なものであった事を。






「――――とは言っても……それ以前に、彼女に危険が及ぶようなら、その時は連れ戻すと思うけど」






八剣にとって、失うべきことの赦されないものは、“京子”と言う存在。
笑って欲しいとは思うけれど、外に出たことで彼女の存在が危ぶまれるような事になるなら、彼女の命を優先する。
例え、連れ戻したことによって彼女に恨まれる結果を招くとしても。


それ以上の説明を拒否するように口を閉ざした八剣。
代わって、龍麻は呟いた。






「八剣君が心配する程、京は弱くないよ」
「知ってるよ。でも可能性がない訳じゃない。特に、今の状態の京ちゃんは、ね」
「でも弱くない」






きっぱりと言い切る龍麻に、八剣の眉根が僅かに寄せられた。


龍麻の言う事を否定する気はない。
京子は決して弱くないし、綿に包めて大切にしていれば良いだけのものではない。

だが仕方があるまい、これが八剣の役目なのだ。
彼女の傍らにいて、彼女を護る為に剣を振るう、それが八剣だ。
彼女が弱くても弱くなくても、八剣のこのスタンスは変わらない。



しかし、この言についてはどう足掻いても龍麻は撤回しないと八剣も知っているから、降参したように息を吐くだけだった。






「俺にばかり聞いているけど、そっちはどうなんだい?」
「……僕?」






きょとんと首を傾げる龍麻に、八剣は改めて問う。






「京ちゃんを外に連れ出して、どうする気なのかと思ってね」
「どう…って?」
「連れ出す理由はあるのかって事だよ」






正直に言って、八剣は龍麻の相手が得意ではない。
苦手とまでは言わないが、一線を隔している事は確かだ。
半分は、同属嫌悪にも近い。

八剣が感情を表に出すことがないように、龍麻もあまり表情を変えることがない。
その反面、他者の感情を読む観察眼に長けている。
何を考えているのか相手に読ませまいとする一面が、互いに近付くことを拒むのだ。


今も質問の意味が判らないとばかりに首を傾げた龍麻を、何処まで本気か量り兼ねる。
それは龍麻も同じで―――――しばらく、二人は沈黙したまま、まるで腹の内を探るように相手の顔を眺めていた。






「……八剣君は、今の世界のこと知ってる?」






少しの間を置いて呟かれた言葉に、八剣は首を横に振った。


“天の塔”は外界から完全に隔絶されている。
影響さえも殆ど受ける事がない。

故に、外の世界を知るには、結界の外側へ出なければならず、京子と共にずっと“天の塔”に居た八剣は、この数十年殆ど外に出ていなかった。
外の情勢については、交代制のある警護の者達から聞いてはいたが、それらも真偽不確かなものである。
何より八剣は、彼女に影響がないのなら、まるで興味を持つことがない。



龍麻は責めることはなく、寧ろ予想はついていたようで、そう、と呟いただけだ。







「太陽がなくなってから、少しずつだけど、世界のバランスは崩れてる」







動植物はそれぞれに進化を遂げ、陽光のない世界でも生きている。
人も同じ、闇夜の世界に生活を適応させていた。

しかし、誰も感知できない場所で、世界は少しずつ崩壊を始めている。


植物の命のサイクルが短くなり、個体が数を減らせば、それを食べる虫も数を減らし、動物たちも同じく少なくなっていく。
遥か昔に比べて絶滅した種族は多く、世界中で最も個体数の多い人間も、その影響を少なからず受けている。
暗い道を照らす為に、篝火を焚く為の木々は切られ、再生が追いつかなくなっている場所もある。

世界の命は、もともと太陽の下で生まれたものだ。
その祝福なくして、生命が生きていくのは、やはり困難だった。



速度は遅い。
気付くものは殆どいない。

しかし、確実に世界は崩壊へと向かっている。






「…“天の塔”は、それでもあまり影響ないと思うけど…」
「……そうだね」






あそこは、全てから遮断された空間だ。
別の見方をすれば、捻じ曲げられているとも言える。


世界から太陽が失われてから、長い年月が既に重ねられた。
夜に適応した形が整い始めた今になって、太陽が戻ってきたとしても、恐らく人々は混乱するだろう。
遠い昔に、突然太陽が失われた日のように。

世界がゆっくりと崩壊を辿って行っていても、其処にある命は、その時代に合わせて変化し、生きる。
それを急激に元に戻したところで、全てが直ぐにリセットされる訳ではない。








「でも―――――この世界がなくなったら、京の好きな世界もなくなるんだ」








―――――遥か遠くに見た景色を、龍麻は今も鮮明に思い出すことが出来る。
晴れ渡る蒼い空の下で、あまねく全てを照らす太陽のように、眩しく笑う彼女の姿を。

ずっと昔、素直じゃない彼女が、たった一度だけ、この世界が好きだと言った事がある。
それも聞こえるか聞こえないかの小さな声だったけれど、龍麻はよく覚えている。
そして京子が好きだと言った世界を、龍麻もやはり、好きだった。






「だからずっと探してた。それは……世界を元に戻したいのもあって、それは京が一緒じゃないと駄目って言うのもあって…他にも色々あるのはあるけど――――、京にまた会いたかったんだ。晴れた空の下で、笑ってる京に」






嘗ての世界の姿を、太陽を取り戻すために、彼女の存在は必要不可欠。
だから探した、でもそれは大義名分の一つ。

本当は、自分がもう一度会いたかった。
遠い昔、互いに何も伝えられないまま、離れ離れになったあの日から。
決して失うことの出来ない名を、存在を、ずっと探して。


太陽が姿を消した瞬間に、一番に彼女の顔が浮かんだ。
太陽は彼女と同一のものとも言えたから、それが失われた時、彼女がどうなっているのか――――考えるだけで恐ろしかった程だ。


京子が生きている保証は、あった。
あったけれど、探す宛てなど見付からず、龍麻は世界を放浪した。

太陽が世界から失われてから、今日と言う日まで。






「……やっと見付けた」
「だけど、今の京ちゃんに世界を元に戻せるような力は残っていない」






はっきりと告げた八剣を、龍麻は見なかった。






「気付いていない訳じゃないだろう? 彼女は自分が誰であるか、何であるかも覚えていない。今の京ちゃんは、普通の女の子と殆ど変わらないよ。緋勇の言う、世界を元に戻す為に必要な力なんて、欠片も残ってない」
「……うん」
「身体の免疫力や抵抗力だけを言えば、子供以下だ。“天の塔”と違って、外には様々なものが溢れている。不純物もある。妖の吐き出した瘴気をほんの僅かでも吸い込めば、彼女は危険な状態に陥る可能性もある」
「判ってる。妖だけじゃない、人にも……毒氣を持つ人はいる。人が沢山いる場所に行けば、何があるか判らないのも」
「そんな場所に連れて行って、彼女が元に戻る保証があるのかな」






言われなくても判っている。
八剣も、自分がわざわざ言う必要はないと思っているだろう。

それでも言ったのは、此処から先の答え――――どうするつもりなのかを聞いているのだ。






「元に戻すよ。世界も、京も」
「方法は?」
「…力が失われた理由が今はまだ判らないから、なんとも言えないけど」






ただ、あの小さな世界にいる限り、彼女は本来の姿を取り戻すことはないだろう。
何も存在しない場所で、自らの存在意義に気付かない限り、彼女は力も自分の形も取り戻せない。
それだけは確実だ。






「八剣君は、何か方法あるの?」
「………さて、どうかな」






否定も肯定もしない八剣に、龍麻はそう、とだけ返す。
全てを話さない間柄は、やはり昔から培われたものだった。






「一先ず、此処から一番近い里に行って、少し様子を見たいんだ」
「その間に京ちゃんに何かあったら、俺は連れ戻すかも知れないよ」
「――――大丈夫だよ」






ぱちり、と焚き火の木が爆ぜた。
龍麻が枯れ枝を炎の中に放ると、焚き火は一つ大きく揺れる。


龍麻は、傍らで眠る京子に視線を移した。
二人の会話を知らぬ彼女は、まるで幼い子供のように、外套に包まって規則正しい寝息を立てている。
昔はもっと寝相悪かったなぁ、と龍麻はぼんやりと思い出した。

少しずれて肩が露出しているのを見つけて、布を引き上げる。



そういえば、ずっと薄着なんだ。



外套の下の京子の格好は、少々危ういものがある。
殆ど下着のみなのだ。

目を覚ましたら、自分の服を貸した方が良い。
今日一日は塔から離れることと、京子があちらこちらに興味を示すのに手一杯で、忘れてしまっていた。
もっと早く考慮するべきだったと、今更ながらに思う。






「大丈夫、ねェ。緋勇が護るってことかな」
「そのつもりだけど…ほら、京、そういうの嫌いだから」






庇われたり、護られたり、そう言った事をされるのが極端に嫌いだった京子。
八剣とだって、そのことで一悶着起こしたことがある。
結局八剣が姿勢を変えないことと、彼女自身も彼自身の役割を理解して、和解に至ったものだが、色々大変だったりもした。

今は随分大人しいけれど、それでも彼女は彼女である事に変わりはない。
庇護される側であると自覚した時、渋い顔をするのが容易に想像できた。






「でも、どっちにしても、八剣君が京を無理やりにでも連れ戻すって言うの、ないと思うな」
「そう? 判らないよ」
「判るよ。八剣君、京に弱いから」
「…………」






否定の意を紡げずに、八剣は閉口し、目を細めた。
図星と言う事だ。


かく言う龍麻も、彼女にはてんで弱い。

子供のようなワガママを言って、イタズラが成功したように笑う顔も。
刃を手に凛と立ち尽くし、眼前を見据える瞳の鋭い光も。
皆全て好きだったから、多少のワガママやイタズラなんてものは、最後はいつも許してしまう。

結局、彼女の周囲にいる人々は皆、揃って京子に弱かったのだ。




八剣は前髪を掻き揚げ、降参だよ、と言葉の変わりに溜息を吐いた。






「…悪いけど、俺は先に寝させて貰うよ」
「うん」






話は強制終了の形になったが、どちらも、もうこれ以上続けられる事はないと思った。
少なくとも今の状態では、同じ押し問答が延々と続くだけだと。



八剣は手近な木に背を預けると、目を閉じる。
一見して眠っているのか、ただ目を閉じているのか、判り難かった。

龍麻は気にせず、火を絶やさぬように、また一本枯れ木を火に入れる。













――――――後には、ぱちりぱちりと爆ぜる音だけが響いていた。












夜の世界 : 第三節
今回、京ちゃんは熟睡中。
間にクッションがないので、八剣と龍麻が絶賛冷戦中です。

この辺設定した頃から、どんどん話のスケールがでっかくなりました。