月の光が届かぬ日 それでも命は、光なくして生きられない 故に人は火を使い 闇を照らして生きていく 絶やしてはいけない 命は、篝火と共にある 篝火 : 第一節 京子が一度目に目を覚ました時、月はまだあった。 けれども、もう一度寝て二度目に目覚めた時、月は既になくなり、京子の知る夜の色に戻った。 月のない眠りをもう二度繰り返し、目覚めてまたしばらく歩いた頃、京子は遠くに光るものを見付けた。 「龍麻、あれなんだ」 京子が小さな世界から外へと飛び出して、遠い過去のように一日を24時間と計算して、四日が経つ。 その間、京子は初めてのもの、知らないものを見つける度、こうして龍麻に聞いていた。 龍麻もそろそろ、京子がどのタイミングでこの設問を投げかけてくるのか、判ってきた。 今回も遠くに火の光が見え始め、もうそろそろかな――――と思っていたところだ。 「人里だよ。色んな人達が沢山集まって暮らしてる」 「……ひとざと」 「あれは町だね。村って言う程小さくないし」 村、街、都……大きさ、人の多さによって呼び方は色々ある。 見える光の密集は、街と言う程大きくなかったが、村と言う程小さくもなかった。 微妙なニュアンスの違いを京子は理解できないだろうが、あれが“まち”と呼ぶものである事は覚えたようだ。 「なんであんなに光るんだ?」 「火を焚いてるんだ。寝る時、僕らも焚き火をしたでしょ。あれと同じようなものだよ」 「あんなに一杯?」 「人が一杯いて、一杯照らさないといけないから」 一杯いる? 一杯照らす? 問いに答えれば答えた分だけ、また問いが返って来る。 火がないと、見えなければ困るものが見えなくなってしまう。 見えなければ困るものが人里には一杯あるから、その分、火は大きくなったり数を増やしたりする。 難しい言葉を言えば京子は益々判らなくなるから、龍麻は言葉を選んで答えた。 矢追のように次々告げられる質問に、嫌な顔一つせずに。 時折八剣が口を挟み、つまりそれは―――とまた一段階砕けた説明を説いていた。 最後の山を下る道すがら、少しずつ、京子の頬が紅潮していった。 光が近くなるごとに、篝火の揺らめきの形が見えてくるごとに。 出入り口を歩く人々の姿が見えた頃には、すっかり楽しげな表情に変わっていた。 少女が一人、篝火の前に立って、ただじっとそれを見上げていると言う図は、はっきり言って珍妙だ。 その少女が五ツ六ツの子供なら、まだともかく――――― 町に入って一番に、京子は道行く人々をきょろきょろ見回して目で追い駆けた。 行商人が行き交う出入り口であったので、彼女のその行動は然程目立たなかったと言って良い。 年頃の少女が汚れた外套を纏っていることも、龍麻の旅装束があるからだろう、奇妙な目を向けるような者もいなかった。 しかし、出入門の横にある篝火の前に立ち尽くすのは流石に目立った。 壁に寄りかかったりしているなら、誰かを待っているようにも見えただろう。 だが彼女は本当に、小さな子供が初めての物を見るように、じっとそれだけを見つめていたのだ。 見た目15歳はあるだろう少女がそんな事をしているのは、普通ではない。 何せ空から太陽が失われている今の時代、篝火はあって当然のものなのだ。 わざわざそれを、改めたようにじっと見つめる者など、生まれたばかりの赤子位のものであった。 放っておくと本当にいつまでも動かないので、龍麻が引っ張って町に入った。 引っ張られて歩きながら、京子はきょろきょろと辺りを見回した。 道行く道を照らす篝火は、途絶えることなく続き、町を端々まで照らしている。 こんなに沢山の火に囲まれた事がなかった京子は、それを不思議そうに眺めた。 彼女の意識を引いたのは、勿論、篝火だけではない。 野菜や果物を並べた棚、色々な音―――正確には鳴き声だ―――が聞こえてくる箱。 嗅いでいると腹が減りそうになる匂いのする箱に、沢山の笑い声がする大きな箱。 とにかく何もかもが彼女にとって初めて見るもので、龍麻にあれはなんだと問うことも忘れて、ただただ手を引かれ歩きながら、京子はそれらを見回した。 そんな彼女の手を引きながら、龍麻が向かっているのは宿屋だ。 京子が色んなものに興味を惹かれているのは判っているが、先ずは寝床の確保が先。 決めるところは決めておいた方が、後で京子にゆっくり町を見せる事が出来る。 八剣は何を言うでもなく、ただ時折足を止めて、何かを品定めしていた。 彼が足を止めているのは殆どが呉服を扱う店で、八剣は京子に似合う服を探していた。 何せ、未だ外套の下の彼女の格好は瑣末なものなのだ。 ――――――やがて三人が辿り着いたのは、町のほぼ中心に位置する温泉宿だった。 「京、此処に泊まるよ」 「……とまる?」 「寝るってことだよ。この建物の中の部屋を一つ借りて、其処で休むんだ」 掲げられた暖簾を潜りながら説明する。 京子はふぅん、と呟いた。 此処でもやはり、きょろきょろと見回す京子を八剣に任せ、龍麻は受付に向かう。 「すみません、空いてますか」 「ああ……一部屋なら空いてるんだけどねェ」 龍麻の問いに、女将が残念そうに答える。 何も言っていないのに何故一部屋では駄目だと思ったのか。 一瞬考えてから、龍麻は気付いた。 龍麻と八剣は男で、京子だけが女。 しかも年頃のようだし、幾ら旅の最中であるように見えても、同じ部屋に入れるのは、京子と同じ女として良くないと思ったのだろう。 彼女が例えば、龍麻と八剣のどちらかと良い仲であったとしても、一人外れるのは確かで、そんな三人を皆一緒の部屋にして宜しいかと言えば、正直言って残りの一人は肩身が狭くなるのが予想できる。 女将の気遣いは、普通に考えれば有り難かったのかも知れない。 しかし、此方は少々事情が複雑であった。 「あの、一部屋で良いですよ」 「そうかい? …でもねェ、」 「僕たち、その……兄妹なんです」 三人揃って、似ても似つかぬ容姿である。 苦しい言い訳である事は十分判っていた。 おまけにベタだ。 ベタだが、これ以上に無難な理由も見付からない。 似てないと思いますけど、本当に……と言うと、女将は眉尻を下げて微笑んだ。 それ以上言わなくて良いよ、と。 宿帳に名前を記入すると、指定された部屋は一つだけだった。 深読みし過ぎて恐らく勘違いされている事はあるだろうが、この際、勘違いしていて貰うに越した事はない。 多分女将の中で、自分たちは“腹違い”だとか、“それぞれが義理”であるとか……そんな風に受け止められたのだろう。 京子の何処か幼い仕種が、余計にそう思わせていた。 「二階の柊の間だって。行こう」 「ひいらぎのま?」 「部屋の名前。色んな人が此処で寝るからね、それぞれに部屋が割り当てられるんだ。それで、柊の間が俺達が使う部屋の名前……判った?」 「………ん」 八剣の説明に、京子は頷いた。 判っているのか、いないのか―――少々怪しかったが、今此処でそれを言うまい。 追々判ってくれる筈だと、龍麻の後を追って、八剣は京子の手を引いて階段を上った。 階段を上り切って、奥へと向かう。 “柊の間”と書かれた表札がかかっている部屋は、一番奥の角部屋だった。 木で作られた引き戸を開ければ、八畳の部屋が二間続いている。 「思ったより広いね」 八剣が呟いた。 「町の真ん中に建っているから、もっと狭いものだと思ってたんだけど」 「そうだね。でも、これ位の方が良いよ。部屋も区切れるし」 言いながら、二人の視線は京子へと向かう。 部屋に入って、やはり此処でもきょろきょろを辺りを見回している京子。 畳を踏む感触や襖、土壁の手触りが面白いのか、忙しなくあちこち触っている。 龍麻は、女将に一部屋で良いとは言ったが、後で仕切り板ぐらいは借りてこようと思っていた。 どんなに中身が赤子のようでも、京子は女である訳だから、モラルの常識くらいは考慮した方が良い。 後々の京子の行動にも、これは影響されるだろう事だとも考えられた。 二間続きの八畳の部屋は、真ん中を障子戸で閉じられるようになっている。 それぞれが八畳の広さであれば、窮屈さを感じる事はないだろう。 担いでいた荷物を床に下ろす龍麻に、八剣も腰の刀を抜きながら問う。 「此処には何日?」 「あまり決めてないよ。三日か四日はいると思う」 曖昧に答える龍麻に、そう、と八剣は返した。 「まあ何にせよ、先ずは京ちゃんの服だね」 京子は未だに外套を羽織ったままの格好で、開け放たれた窓辺の腰掛に乗り上げている。 どうやら、其処から見える景色に意識を奪われているようだ。 その様子をしばし見つめた後、八剣は立ち上がった。 「幾つか目星はつけておいたから、探しに行って来るよ」 「うん」 「京ちゃん、」 八剣が呼ぶと、京子が振り向いた。 「少し出掛けて来るから、良い子にしててね」 迷惑かけちゃいけないよ、と、小さな子供に言い聞かせるような台詞。 だが京子は素直に頷いて、また窓の外に眼を向けた。 何がそんなに彼女の目を引くのか、龍麻も八剣も判らない。 それでも今の所は何処かにふらりと行ったりはしないだろう。 八剣は、龍麻に彼女を任せるよと一言告げてから、部屋を出て行った。 閉じた戸を改めて見ることなく、龍麻は窓辺の腰掛に乗り上げている京子の隣に座る。 「面白い?」 「………?」 龍麻の問い掛けに、京子は顔を向けて首を傾げた。 「面白いって言うのは、楽しいとか――――なんだか気になるものがあるなあって思う時とか。そういうもの、ある?」 今度は頷いた。 何が気になるかと訊ねてみると、京子は真っ直ぐに指差す。 示されたのは人々が行き交う大路で、其処にひょこりひょこりと動く影を龍麻は見付けた。 その影はチンチン、ドンドンと音を鳴らし、傘をくるりくるりと廻しながら、列を作って進んでいる。 「チンドン屋だね。何か宣伝してるのかな」 「せんでん……?」 「こういう事やりますよって書いてある紙を持っててね。ああして音を鳴らして皆の気を引いて、紙を配って周りの人たちに教えてるんだ」 チンドン屋。 京子が覚えるように呟いて、またその影を目で追った。 好きなだけそうさせていても良かったが、取り敢えず、龍麻は彼女の外套を脱がせなければと思い出す。 防寒の為に厚手の布で作られた外套は、見た目からも重そうに見えて、実際に重い方だと言って良い。 道中、京子は重みに堪えた様子を見せなかったが、今の彼女に負荷があるのは間違いない。 「京、それ脱ごう」 「それ?」 「うん。これ。もう脱いでも寒くないから」 留め金を外せば、あっさりと外套は脱げた。 大きさの合わない服を着た細い肢体が、ようやく外に晒された。 重みをさして気にしていなくても、身が軽くなったことは判ったのだろう。 京子は外套を外して、その重さから解放された肩を仕切りに気にした。 其処にあった重みが急になくなったのが不思議なのだ。 そして大きさの合わない服を着込んだ京子を見て、龍麻は思う。 (……八剣君、速く帰ってこないかなあ) ――――晒しも何もない、自由なままの彼女の胸元。 襟合わせから覗くそれに、龍麻はそう思わずにはいられなかった。 八剣が帰ってくるよりも先に、仲居が部屋に食事を運んできた。 綺麗に膳に飾られた食事。 京子はしばらく食べることなく、それをじっと見つめていた。 白い米と赤出汁の味噌汁、鰤の照り焼きと白菜の漬物。 野宿の時よりも色鮮やかで品数も多いそれに、京子は中々箸をつけようとしない。 龍麻がさりげなく促して、ようやく米を口に運んだ。 「美味しい?」 問い掛けに、京子ははっきりと頷く。 後は自分のペースだ。 魚もちゃんと自分で解して、漬物は食感が気に入ったようだ。 コリコリと音を楽しむ京子を龍麻が眺めていると、木戸が開けられる。 「八剣君、お帰り」 「ああ。もう食事だったんだね」 「うん」 「京ちゃん、美味しい?」 「ん」 白飯を噛みながら京子は頷く。 幼い仕種に笑みを浮かべ、八剣は残りの一つに膳に落ち着くと、手を合わせてから食事を始めた。 「服、良いのあった?」 「ああ。話はつけて置いたから、後で京ちゃんと一緒にもう一度行ってくるよ」 「うん」 服を仕立てる為には、本人がいなければ中々難しい。 身丈、袖丈、裄(ゆき・腕の長さに反映される寸法)、身巾(みはば・胴回り)、褄下(つました・衽の衿先から裾までの長さ)、袖付け、肩クリ(衿抜きを反映させる寸法)。 長襦袢一つを作るだけでも、それらの情報は必要不可欠であり、正確でなければならないのだ。 「京ちゃん、後で出かけるよ」 「……?」 何処に? と首を傾げる京子。 呉服屋だよと言えば、其処が何であるのかは判らないようだったが、『何処に』行くかは判ったので納得したようだ。 それに、今は何処に行く云々よりも、目の前の食事の事で頭が一杯らしい。 龍麻よりも早いペースで平らげて行く京子の膳の上は、既に味噌汁が少量残っているだけだ。 食感が気に入っていた漬物は、一番最初に空になっていた。 最後の味噌汁を飲み終えて、お茶も飲んで。 一息吐いた所で、京子は龍麻を見て、 「龍麻も行くのか」 「うん?」 「ごふくや」 問われて、龍麻は取り敢えず口の中のものを呑み込んでから、 「…僕、ちょっと他の所行かないといけないんだ」 「他?」 「だから京は八剣君と二人で行って来てね」 「判った」 駄々を捏ねるような様子も、嫌がるような顔もなく、京子は素直に頷いた。 京子の膳は空になっている。 自身の腹も満足したのだろう、京子は箸を置いて席を立った。 食事前のように窓辺に向かい、腰掛に乗り上げて外を眺める。 チンドン屋の音が近くで鳴っている。 京子の視線はそれを追いかけていた。 遠めにそれを眺めてから、八剣は箸を再開させた。 それから数瞬、ある事を思い出す。 「ああ――――そうだ。宿の隣に面白いものがあったよ」 「隣?」 「瓦版屋だね。一枚貰った。中々面白いことが書いてある」 言って、八剣は懐に閉まっていた瓦版を取り出す。 内容は、何処何処の橋の上で火の玉が出ただとか――――、何処何処の川辺に小豆洗いがいただとか――――、何処の地方の何処其処では河童が見られるだとか。 瓦版と言うよりも妖怪絵巻のような名前が並び、やれ悪さをしただの、人を救っただのと書かれている。 太陽が失われて以来、妖怪は数を増し、その中には凶暴な輩もいれば大人しいものもいる。 人里に紛れ込んだ妖怪も存在し、それらは時折、ひょっこりと人前で何某かを仕出かした。 それを取り沙汰にする新聞は今となっては珍しくないが、それにしてもこの瓦版は数と情報量が半端ではない。 まるで見てきたかのように、物語のように連なる文章は、信じる信じないに関わらず人を感心させる。 「京ちゃん、字も読めないだろうし、妖怪の事も判らないだろうし。教材になるかなと思ってね」 「……どうかなぁ。京、勉強嫌いだから」 笑って言った龍麻だったが、ただの文字の羅列を追い駆けるよりは、彼女の興味を惹くだろうと思う。 物語性があれば、読んでいく内に続きが気になってくるもので、普通に読み書きするよりも呑み込みが早くなる。 知識が増えれば、彼女の世界はもっと広がる。 記憶がなくても、最初は何も判らなくても―――――最初は誰だってそうであるのだから。 誰だって最初の世界は小さくて狭いものだ。 零から始まって一つ一つの何かに出会って、それを覚えて行くから、世界は広くなっていく。 塔を出てから今日までだけでも、彼女の世界は一気に広がったと言って良い。 目に見えるもの、匂いのするもの、触れるもの。 形、色、その意味とその意義。 知り得てこそ見えてくる世界がある。 それは、彼女自身が存在する意義も同然。 彼女の存在を他者に知られてこそ、彼女は自分自身を見つける事が出来る。 「龍麻、龍麻」 呼ぶ声が聞こえて顔を上げれば、窓枠に乗り上げたまま、京子が龍麻を呼んでいた。 丁度膳も空になり、龍麻は箸を置いて彼女の許へと近付く。 「何?」 「あれ、あれなんだ」 「どれ?」 指差す先を探しながら、龍麻は楽しそうに笑う京子に――――――いつかの笑顔の面影を、見つけていた。 篝火 : 第二節 人里に着きました。……長かった(もっと長いよ、この話)。 “天の塔”で京子が着ていたのは、形はスポーツブラみたいなものですけど、機能的には単なる薄布で締め付けもないので、動けば揺れます。その上に今は龍麻の服を間借りしてます。……胸の谷間丸見え(笑)。 八剣がどんどん保護者になって行く…… |