篝火 : 第三節












龍麻が宿に戻った時には、京子と八剣は既に部屋に戻っており、京子に至っては寝巻きに着替えて、布団の中で眠っていた。

八剣はその傍らで、仄明るい行灯に照らされる彼女の顔を、何をするでもなくじっと見ていて。
龍麻が戻ってきた時に一瞬ちらりと目を向けはしたが、何も言わずにまた彼女を見つめた。


得てきた物を渡しそびれた龍麻だったが、別段、急ぐことでもない。


一先ず自分も寝てしまおうと思い、龍麻は一旦部屋の外に出ると、釘の杭に『就寝』の板を引っ掛けた。
それから続きになっている部屋の障子戸を閉め、全体の半分の広さになった部屋に布団を敷いて横になった。

行灯の灯りは障子戸の向こう側にあり、龍麻は、暫くの間其処に映し出された影を見ていた。
時間にして一時間程が経っても、龍麻は飽きる事なくそれを見つめ続けた。
そうして何事かが起こると思っていた訳ではなく、ただ、この障子戸の向こう側に彼女がいるんだと感じていただけ。
そう、ただ感じていたかっただけだった。




龍麻がうとりとし始めた頃に、障子向こうの行灯の灯が消えた。
障子戸が開いて此方に入ってきたのは八剣で、彼も布団を敷いて横になった。

一度開けられた障子戸は、完全に閉められていなかった。
その意図を、龍麻は判るような、でも違うような気がして、判然としなかった。
けれども、その隙間から彼女の寝顔が見れたから、それは少し嬉しかった。


















三人の泊まる柊の間が静まってから、約六時間。
一向の睡眠を覚醒へと促したのは、部屋の扉を叩く音と、馴染みのない高い声。







「こーんにーちわーッ。瓦版屋でーすッ」







覚醒と眠りの縁で、最初にのそのそと動き出したのは龍麻だった。

『就寝』の板を掲げ忘れたかと思ったが、いや、ちゃんと出した筈だと思い出す。
仲居が急用が出来た訳でもなさそうで、龍麻は起き上がって首を傾げた。


其処でまた一つ、








「おーい、起きてよー」








……此方が寝ていることを承知の上での行動のようだ。






(……瓦版?)






瓦版屋が何の用事なのか。
思い当たる節もないが、このまま放っておく訳にも行かない。
障子戸の向こうで、少女が浅い眠りの中で寝返りを打った。


龍麻が立ち上がって部屋の木戸に向かうと同時に、八剣も起き上がった。






「誰だい?」
「さあ。瓦版屋さんらしいけど」
「……ああ、」






どうやら、八剣には心当たりがあるようだ。
そう言えば瓦版を買って帰っていた事を思い出す。
この宿の隣が瓦版屋である事も、最初に八剣が言った事だった。

しかし、その瓦版屋が直々にこの部屋にやって来る用事などあるのか、龍麻には判らない。
昨日は食事をして以来、龍麻は一人で別行動をしていたから。



木戸を開けると、其処には眼鏡をかけた一人の少女が立っていた。






「あら?」






少女は龍麻の顔を見て、きょとんとする。
部屋の名前を確認し、もう一度龍麻を見た。






「えっと……何か用かな」
「え? あ、えーっとね……」






龍麻の問いに、少女は首を傾げて頭を掻く。






「あの、この部屋って、あなただけ…?」
「そうじゃないけど」
「――――代わるよ、緋勇」






どちらともなしに相手の出方を伺う形になった二人に、八剣が割り込んだ。
知った顔を見つけてか、少女が安堵したように表情を明るくする。






「あー、いたいた、良かった!」
「此処に泊まってるとは言ったけど、よく部屋まで判ったね」
「あたし、顔広いからね。皆大抵の事は教えてくれるわよ」
「そう。ああ、緋勇、京ちゃん起こしてくれるかな」






言われて、その場を八剣に任せることにして、龍麻は部屋に戻る。


起こせと言われたが、戻ってみれば京子は既に起きていた。
布団から起き上がって、眠たそうに目を擦り、きょろきょろと辺りを不思議そうに見回している。

障子戸を開くと、眠気を残す瞳が龍麻を見上げる。
寝巻きの袂が緩んで膨らみが見え隠れするのを見つけ、龍麻は眉尻を下げると、京子の前にしゃがんで合わせを直した。






「…なんだ? なんか煩ェ……」
「瓦版屋さんが来たんだ。八剣君が話してる」
「……かわらばん……」






目を擦りながら考える京子。
暫くすると、此方も思い当たる節があったようで、のろのろ立ち上がる。

其処に丁度、八剣と少女が入ってきた。






「いたいた。悪かったわね、起こしちゃって」
「んあ……? 別に……」






欠伸を漏らしながら言う京子に、少女は、それなら良かった、と笑う。






「じゃ、取り敢えず着替えましょ」
「あ? …なんで?」
「いいから早く早く! 服、これでいいの?」
「……ん」
「はい、それ脱いで。あ、待って、其処閉めるわ」
「…なんで閉めるんだ?」
「それも判んないの!? いいわ、後で全部教えてあげるからッ」






京子の返事を待たず、少女はてきぱきと京子の着替えを手伝った。
いや、京子の方は何もせずにぼんやりしているので、手伝うと言うより、着付けたと言った方が正しいか。



京子とは別の意味で、一人現状について行けていないのが龍麻であった。

少女が京子と八剣と知り合いである事は判ったが、このまま放って置いて良いものだろうか。
八剣が止めないから、何かしら危ない事はないのだろうが、これから何が始まるのかが判然としない。


首を傾げている龍麻に、八剣が説明した。






「呉服屋から帰った時に会ってね。話をしていたら、どうも京ちゃんが気に入ったみたいで」
「……ふぅん」
「京ちゃんが何も知らないって話をしたら、自分が色々教えるって言い出してね。京ちゃんも彼女と話をするのは嫌ではないみたいだから、頼んだんだ。俺達じゃ説明しきれない事もあるだろうし」
「女の子だもんね」






京子の言動は女らしいものではないが、間違いなく、彼女は“女”だ。
女故の問題と言うものはあるもので、それについては龍麻も八剣もお手上げである。
そんな時の為に、同じ女性から色々教わっておくのも必要だ。










「それに―――――“ヒト”の世界は、“ヒト”じゃないと判らないよ」










潜める声で呟かれた言葉に、龍麻は頷く。


障子戸の向こうは、少女の慌しい声と、京子の未だぼんやりした声とが交互に続いていた。






「晒しとかってないの?」
「なんだ、それ」
「…なさそうね……駄目よ、ちゃんとしないとッ」
「……ちゃんとって?」
「男二人と旅するんだから、こういう所はきちんとしてないと、危ないのよ」
「………?」
「一先ず、この布でいいかしら。はい、腕上げて」
「ん」
「次から自分でやるのよ。それと、男の人が一緒にいる時に裸になっちゃ駄目」
「……なんでだ?」
「そういうものなの!」






面倒臭そうな京子の声に、少女は言いつけるように強い口調で言った。
障子に映り込んだ京子の影は、ことりと首を傾げたが、少しの間の後に首を縦に振った。


しばらくして障子戸が開くと、寝る前と同じ、男装に身を包んだ京子がいた。
しかし胸元は布地を裂いて作ったのだろう晒しで固定されており、谷間が少し覗いたものの、昨日ほど危なげな印象はない。

京子は終始大人しかったが、それでも少女にとっては手がかかったのだろう。
少し疲れた表情をしながら、どんな生活してたのよ、と呟いた。
男二人に少々冷ややかな目が向けられたのは、恐らく龍麻の気の所為ではない。






「それじゃ、行きましょ」
「……何処に?」






きょとんとして問う京子に、がくりと少女が肩を落とした。






「約束したでしょ、あたしが色々教えてあげるって」
「……ん」
「だから、色々案内してあげるの」






どうも言葉の意味を碌々理解していない様子の京子に、少女は溜息を吐いた。


それより。
龍麻としては、いつそんな約束をしたのか、八剣に問いたい。

無言で視線を投げていると、八剣は言葉なくともその意味に気付いたようで、





「話をする内に、そういう事になってね」
「……良いの?」
「さあ、ね。京ちゃんは良いって言ったから、俺はそれを取り上げる気がしないだけだよ」






龍麻の問い掛けは、言葉そのものの意味でなく、含みがあった。
八剣もその意味を理解している。




―――――京子に何かあれば、強引にでも連れ戻すと言った八剣。
そうなる事はないと龍麻は思っているが、万が一の可能性もあるのだ。

その万が一が起きて彼女を“天の塔”に連れ戻した時、今までのように彼女が大人しく小さな世界を受け入れるかと考えたら、堪えは否だ。
外の世界を知り、溢れた色や光に惹かれて行けば、二度とあの昏い世界には戻れなくなる。
あの世界だけが当たり前だっただなんて、彼女はもう思えないだろう。


八剣は、京子から取り上げる事をしない。
彼女が自ら手に掴んだものを、奪う事をしない。

だが彼女の命に関わる事なら、話は別だ。

京子の身に危機があれば、彼女に憎まれることになっても、八剣は外の世界と言うものを彼女から取り上げるだろう。
八剣にとって何よりも大切なのは、彼女の“存在”そのものであるのだから。
それが危ぶまれた時、彼が迷わず選ぶのは、彼女の“存在”が閉じられない事だ。



現れた少女が、京子の世界を一気に広げる。
八剣が取り上げるものが、どんどん大きく重くなる。




それでも京子が良いと言うなら、その場限りの事であっても、八剣は彼女から取り上げる事は出来なかった。






「……鑑だね」
「さてね。どうだろう」






龍麻の呟きに、八剣は曖昧に濁した。
濁されたが、龍麻の感想は変わらなかった。

自分と八剣は立場が違う。
龍麻は彼のようにはなれないと思う。
彼女が望んでいるからと、何も取り上げないように自分の感情も置いておくなんて、難し過ぎる。
それをこの男は、いつもの笑みを浮かべて誰にも悟らせないから、素直に凄いと思った。



二人の横を、少女に手を引かれた京子が歩いて戸口へ向かう。






「それじゃ、この子借りて行くねー!」
「あ、待って、僕も行くよ」






龍麻が言うと、戸口で京子と少女が振り返った。






「龍麻、も?」
「うん。いいかな」
「あたしは構わないわよ」
「――――緋勇、その前にちょっと」






戸口の二人を追おうとした龍麻を、八剣が呼び止める。
何かと振り返ってみれば、手招きされていたので、それに従った。






「京ちゃんの出自について、昨日色々と話したからね。ボロ出さないように。彼女、結構鋭いから」
「……なんて言ったの?」
「北の街の貴族屋敷の娘で、世間一般には公表されていない存在だってね。昔は病弱で、閉じ込められていた所為で周りの事を何も知らないのも言ったから、後は適当に話を合わせてくれ」






……また思い切った設定にしたものだ。


貴族屋敷の娘と言うキーワード一つで、脅しの効果もある。
病弱で寝たきりだったと言われれば、それはつまり極度の箱入り娘と言う事で、物事を知らないことにもある程度説明がつく。
京子の場合は、度が過ぎている所もあるが、其処への追求は先の脅し文句が抑制してくれる。
下手に突っ込んで関わったら、後々自分の身に災難が降りかかる可能性もあると言う事だ。
必要以上の事は知らないままの方が良いのだと、相手に思わせる事が出来る。

また、今の京子は方便でも嘘が出て来ないだろうから、ほんの少し真実を交えて、彼女の記憶の辻褄合わせをする。
一日をどうして過ごしていたのかと聞かれれば、彼女は寝ていたと恐らく答え、誰かと遊んだりしなかったのかと問われれば、恐らく八剣ぐらいしかその相手を上げないだろう。
“病弱”で“閉じ込められていた”、“隠されていた”という言葉が、彼女の言葉によって事実に近いものになる。



後は、龍麻がボロを出さなければなんとかなる。
京子の発言には、時折気を配らなければならないだろうが。

――――嘘を吐くのは苦手だが、今回は少々気張らねばなるまい。








「龍麻?」








京子の呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、二人が戸口を開けたまま待っている。






「ごめん。いいよ、行こう。……えっと、」






京子を外に促してから少女を見て、龍麻は数瞬考えた。

それを正面から受けて、少女はしばし不思議そうな顔をしてから、思い立つ。
二人とも互いに名乗っていない事に。






「杏子。遠野杏子って言うの」
「緋勇龍麻。京と一緒の名前なんだね」
「そうなの?」
「…聞かなかったの?」
「タイミング外しててね。あの人が京ちゃんって呼んでたから、そういう名前かとは思ってたけど」






それでよくこの部屋を突き止めたものだと、龍麻は内心感心した。






「京、自己紹介したら? ほら、名前」
「……京子」
「本当だ、一緒の名前なのね」
「……?」
「あたしも杏子。でもアン子で良いわ」
「……あんこ……?」
「あたしの字、“あんず”って書くのよ。だから皆アン子って呼ぶの」






“だから”の意味が判らなかった京子だったが、ふぅん、と呟いただけだ。






「……じゃあ、アン子」
「うん。あたしは京子って呼んで良い?」
「なんでもいい」
「じゃあ決まり。そっちは緋勇君で良い?」
「うん」









それじゃあ出発、と。
勢いよく引っ張られて廊下を駆ける二人を、龍麻はのんびりと追って歩いた。














篝火 : 第四節
あれ、意外と長くなったよ、この話。
さっさと外に出て、町巡りする予定だったんだけどなぁ……

龍麻と八剣の会話に非常に気を使います。神経磨り減ってきた……