人世 : 第二節












夜の空を赤に染める灯り。
それは大きく揺らめき、動き、踊り、舞う。

その姿形は、町の道々を照らす篝火とよく似ていた。



――――――けれど。








(なんだ?)








辿り着いた火の周囲を、沢山の人が囲んでいる。
囲む人々をまた囲む人の輪は、皆呆然と立ち尽くしていた。







(これ、なんだ?)







人が人を囲む様子は、見世物小屋でも見た。
だけれど、あれとこれは明らかに違う。


ごうごうと音を立てる火は、大きくうねり、その中にある建物の形を次々と崩して行った。
その度、何処かで悲鳴が上がり、火の粉が跳んで京子達の傍へと降ってくる。
小さな火の粉は地面に落ちると直ぐに消えたが、眼前で猛る赤い光は、まるで全てを呑み込まんとするかのように蠢いていた。

蠢く火に向かって手を伸ばし、子供が、と叫んでいる女がいた。
それを三人の男達が止めているが、女は聞かず、尚も暴れて手を伸ばす。










(なんだ―――――――?)










ざわざわと、何かが足の裏から這い上がってくるような感覚がした。
正体の判らないそれは、やけにねっとりとして、絡み付いてくる。



腹の奥がぐるぐるとして来る。
喉から競り上がってくるものがあった。

同じ感覚を、京子は以前も体験した。
あの時とは自分の状態も状況も違うけれど、感覚はあれと等しい。
頭の中も同じで、何かが絡まりあって解けないような意識がある。





耳に届く割れんばかりの叫ぶ声。
その隙間に届いてくる、沢山の人の昏い呟き。





此処が、ほんの数時間前に通った場所だと、京子は気付くことはなかった。
たった一度通りかかっただけの風景を忘れている訳ではないが、それと目の前の光景とが一致しない。



食事が出来たから家に戻れと促した母親と、まだ遊びたいと頬を膨らませた子供。
手毬遊びに童唄が紡がれ、家々から沢山の明るい声と暖かな匂いがした。
所によっては赤子の泣く声がして、障子窓の向こうでそれをあやす親の影が映りこんでいて。

其処には何も昏いものなど見付けられる筈もなく、ごく普通の、沢山の家族の姿があった。
立ち並ぶ長屋の奥から聞こえていた子供達の声は、いつも笑っているものだったのに。


―――――此処にあるのは、一体なんなのだろうか。






立ち尽くす京子の袴の裾を、小さな手が引いた。
はっと我に返って見下ろせば、見覚えのある子供が一人。







「きょー、こ……おねえ、ちゃん…」







それは数時間前、京子に手毬遊びを教えた子供の一人だった。
赤い手毬を持っていた子だ。


綺麗だった筈の着物が、所々焼けて煤けていた。
顔にも、京子の袴を握る手も、火傷で傷ましい痕が残っている。






「おね、ちゃ……おかあ、さん…がぁ……」






ひっく、と喉を引き攣らせながら、子供が一所懸命に言葉を紡ごうとする。
けれども、それは結局上手く繋げられないまま、子供の我慢は限界になり、京子に縋り付いて声を上げて泣き始めた。

京子は、どうすれば良いのか判らない。
抱き付いて泣きじゃくる子供を見下ろすしか、京子に出来る事はなかった。








(なんだよ、これ)








この子供が、どうして泣いているのか。
どうしてこんなに傷だらけなのか。

判るようで、判らなくて。
その理由も、京子はまた判らない。



炎に包まれた家屋が崩れて、酷い音を立てる。
家が崩れて行く音に、縋る小さな肩がビクリと跳ねた。
その肩に手を添えれば、子供は益々泣き出して。








(……気持ち悪ィ)








それは決して、縋る子供の事ではなくて、崩れて行く音の事でもなくて。










「―――――――京ちゃん!」










呼ぶ声に顔を上げると、息を切らした八剣が立っていた。
憔悴しかかった表情に、こいつのこんな顔初めて見たな、と妙に冷静な頭が考えていた。






「やつるぎ……」
「おいで」






八剣の手が、京子の腕を掴んで引く。
そのまま引っ張られるかと思ったが、反対に引く手があって、京子は踏み止まった。

京子の手を、小さな手が掴んでいる。






「八剣、こいつ、」
「ひっく…え、ふぇええん……」
「おかあさんって」






子供が泣いている理由は京子にはよく判らなかったが、このまま放っておく事も出来なかった。
辛うじて子供が呟いた単語を覚えていた京子は、それだけを八剣に伝える。

八剣は泣きじゃくる子供を見下ろして、京子が言わんとしている事と、子供が何を言おうとしていたかを悟る。
しかしそれが判った所で、八剣にもどうする事も出来なかった。
燃え盛る炎は衰える様子もなく、風に煽られて更に勢いを増そうとしている。






「八剣」






どうすれば良いのか判らない京子にとって、現状で頼れるのは八剣しかいない。






「……京ちゃん……」
「やつ、」
「悪いけど―――――……」






言いたいことは判る。
それに応えたい気持ちも、八剣にはあった。

だが、燃え盛る炎を見ても、最早希望はないに等しかった。


八剣の言葉の意味を理解したのは、京子ではなく、傍らで泣いていた子供だった。
大きな瞳からぽろりと大粒の涙が零れ、子供は京子にしがみついて大きな声で泣いた。






「八剣」
「…………」
「八剣、」
「……ごめんね…」






八掛を引く手が、現状を理解できずにいても、何を言いたいのか。
真っ直ぐに見上げてくる瞳が何を求めているのか、判ってはいるけれど。



柱の崩れる大きな音がして、火の粉が舞う。
近い距離に落ちるそれから逃れる為に、八剣は今度こそ京子を其処から引き離した。

しがみついたままの子供の手を京子が掴み、同じようにその場から離れる。
もう子供は泣きじゃくり、母を呼ぶだけで、京子の引く手に逆らわなかった。


人混みを抜けて行く間、京子の目に飛び込んでくるのは、見た事のない顔をした人々で。








(これ、なんだ――――――?)








また腹の中がぐるぐるとする。

足が縺れて、鑪を踏んだ。
八剣はそれに気付いていないのか、構わず前へと進む。
子供も半歩遅れながら、手を引かれるままに走った。



後ろを振り返れば、人混みの向こうに未だ燃える赤。

篝火の灯りとは比べ物にならない程に大きくうねる火の中から、京子は鳴き声を聞いたような気がした。
それは叫びのような、嘆きのような色をしていて、けれども、燃える赤に呑み込まれて誰の耳にも届かない。






路地を幾つか曲がって、八剣が足を止めた。
京子はその背にぶつかってから、彼がそれ以上進む気がない事をようやく悟る。


手を離さないままに連れて来た子供は、ずっと泣いている。
ずっと握り締めていた手を離そうとすると、子供はいやいやと頭を振って京子の手を掴んだ。
それでも、子供が呼んでいるのは、母であった。

見下ろす子供のくしゃくしゃに歪んだ顔が、手毬遊びをしていた時のものと、どうしても結び付かない。
此処にいる子供は、本当にあの時京子に手毬遊びを教えた子供と同一なのだろうかと、そんな疑問さえ浮かんだ。




子供を見下ろす京子の横顔に、八剣は無意識に唇を噛む。

こんな顔をさせたくなかったから、あの時、あの道を選んだのに。
笑顔を見たいと一度でも望めば、またこんな顔をさせてしまう――――――……






「……京ちゃん」
「なんでだ」






何某か言おうとした――何をかは八剣にも判らない――八剣を、京子の声が遮った。








「なんでだ?」








顔を上げて問いかけてくる京子の言葉は、あまりにも曖昧で、漠然としていた。
それでも見つめる瞳の感情は、悲哀と言うに相応しい色。



なんで子供が泣いているのか。
なんで皆が泣いているのか。

なんで、こんなに胸の奥がぐるぐるするのか。


判るようで判らない。


それによって生まれてきた感情の正体も、今の京子には判らない。
周囲の悲しみの色に、例えば哀れみや同情心と言うものであっても、京子はそれが何であるのか掴めない。

止め処なく溢れる感情が、京子の内側を掻き乱していく。
感情に頭が追いつかなくて、理解と認識を置き去りにして、気持ちばかりが先走る。
整理も何も出来ないままで。







「……ごめんね」







どうしてと問いかける京子に、八剣はそれしか言えなかった。



あの時、無理にでも連れ戻していれば良かったのか。
感情を生まない日々を強要したのがいけなかったのか。

―――――遠い日に選んだ道が、間違っていたのか。


謝罪の言葉も、自分でも薄っぺらく感じていた。
どれに対して謝ればいいのか判然としないままだから、中身が言葉について行かない。

それでも、今の彼女の混乱を招いた原因は、間違いなく自分であるのだろうと八剣は思った。
全てを忘れて、感情も忘れて、零の状態を維持させたのは八剣だ。
彼女の意思と関係なく、遠い日から今まで、八剣は彼女の記憶と共に感情も封印させて来た。
それを唐突に蘇らせてしまったから、こんなにも彼女は困惑している。






「なんでだ? なぁ、八剣」






龍麻がいない今、京子の疑問に答えられるのは八剣しかいない。
けれども、八剣は口を噤んだ。

そして八剣が黙る理由も意味も京子には判らなくて、また問いかける。







「八剣」







なんで黙るんだ。
なんで言わないんだ。

なんで教えてくれないんだ。


狭い世界を出てから、今の今まで、八剣は自分の疑問に答えてくれた筈だった。
八剣が言わなければ龍麻が教えてくれたし、逆に龍麻が答えてくれなければ八剣が教えてくれた。

そうだ、狭い世界にいた時だって、八剣は色んなことを話していて、色んなことを知っていた。
彼が何を話していたのか、京子は殆ど覚えていないが、京子が“京子”だと教えたのは八剣だ。
狭い世界にあった数少ない存在――――窓も空も夜も星も、全部八剣が教えたものだ。





子供が泣いているのはなんで?
皆が泣いているのは?
あの大きな赤が、他の灯りと違うのは?

腹の底がぐるぐるするのは?


なんでお前は黙ってるんだ?






繰り返し、なんで、と問う京子に、八剣はもう口を開かなかった。

答えを求めて何度も問いかける京子を、八剣は抱き締めた。
突然の事に驚いて、京子の声がぴたりと止まる。









「ごめんね」









一つ一つに答えられるほど、今八剣は冷静ではなかった。
過去の自分の犯した罪が、この瞬間、目の前に並べ立てられ突きつけられているような気がする。

他の誰でもない、唯一無二の存在によって。










半鐘の音が徐々に小さくなって行く。
遠くの赤は、少しずつ少しずつ削られて行った。

だけれど、二人の傍らに佇む少女は、今も泣き続けている。


















































半鐘の音が小さくなるに従って、炎は沈静化の兆しを見せていた。
連なる長屋全てが燃えると言う事態は免れたものの、それでも連なる十軒程が灰と化した。

家屋の名残すら残さぬ家々の残骸の周りで、沢山の人が泣いている。
子供を失った親、親を失った子供、たった一人残されてしまった者―――――辛うじて命が助かった者の中にも、半身を失い、いっそ死なせてくれれば良かったものをと嘆き叫ぶ者もいた。
命一つで生きながらえ、その代価の如く家族も家も失って、ただ呆然と空を仰ぐ者も。


長屋住人たちの不注意か、それとも人による火災であったのか。
それは龍麻達には要として知れない。






「………こんな事ばっかり」






龍麻の隣で、アン子が呟いた。







「この間、火事の瓦版を刷ったばかりなのよ。何度も何度も刷りたくないわよ、あんな記事」







町の何処何処で火事があった。
被害家屋が何軒で、死傷者が何人いて。
火付改から、火災原因の内容を聞いて。

次に刷るなら、犯人捕縛の瓦版がいい。
何度もそう思いながら、殆ど内容の同じ瓦版を刷って。


板を彫っている間に、一体何度泣きたくなっただろう。
いつまで、こんな瓦版を刷り続けているのかと。



恨み言でも吐き出すかのように呟くアン子に、龍麻は返す言葉を持たない。
それでも、彼女の苦しみは言葉の端々から突き刺さるように伝わった。



アン子は、目尻に浮かんだ涙を乱暴に拭った。
袖を捲って肩掛けにする。






「あたし、怪我してる人の手当してるわ」
「僕も手伝うよ」
「それは…嬉しいけど。京子は?」
「八剣君が一緒にいると思う」






正直、気にならない訳ではなかったが、龍麻は目の前の惨状も放って置けなかった。


京子も八剣も、此処にはいない。
ならば恐らく、何処かで一緒にいるのだろう。
もう宿に戻っているかも知れない、それなら良い。

八剣のことだから、今日はもう京子を一人にしない筈だ。






「そっか。ありがとね、緋勇君」






力なく微笑んで見せるアン子に、龍麻も小さく笑んだ。





最初に、両足に酷い火傷を負った男の下へ行った。

この人物は倒れた箪笥に足を挟まれ、その箪笥に炎が燃え移った。
家族がそれを見つけて助け出したが、箪笥の炎で両足の皮膚が焼かれ、爛れてしまった。


アン子の知り合いであるこの男は、アン子の顔を見て少し安心したようだった。
家族も皆無事で、怪我をしたのが自分ひとりであったのは、不幸中の幸いだったと言う。
それでもしらばく仕事が出来ないから、それは家族に申し訳ないと呟いた。

その話をじっと聞きながら、アン子と龍麻は火傷の処置を施した。
男と同じく、アン子の知り合いである診療所の医師に分けて貰った木立蘆薈(きだちろかい)の葉を切り、葉肉から滲み出た液体を患部に当てた。
龍麻が手早く布でそれを固定すると、短い感謝の言葉が述べられ、龍麻は小さく笑んで見せた。



次に、親に抱き締められていた子供。
子供は、顔に負った火傷が痛くて泣いていた。

濡らした手拭で患部を冷やしてから、前の男と同じように木立蘆薈の葉を当てる。
痛い痛いと泣きじゃくるのを宥めながら、アン子はなるべく葉を押さえつけないように注意を払う。
母に包帯代わりの白布を巻いて貰って、子供はようやく落ち着く兆しを見せた。




手当てをしようとして、それを振り払った者もいる。
とうに家族から見放された、乱暴者で有名な男だった。

火事によって、自分を見放した家族も失った男に対する眼差しは、何故お前こそが死ななかったのだと言う冷たいものだった。
それは男も感じ取っていて、だったらなんで火の中に置いて行ってくれなかったのかと喚き散らす。


アン子は放って置いていいと言ったが、龍麻はそれを聞かなかった。
暴れる男を軽く往なして、手早く処置を施した。

どうして放って置かないのかとアン子に訊ねられ、男からも同様の言葉で怒鳴られた。
けれど、どうしてと言われても龍麻も明確な理由はなく、ただ放って置けなかっただけとしか言えない。
恩を売る気かと怒鳴られても、龍麻は何も言わずに、処置を終わらせてその場を離れた。




約一時間、そうして火事の起きた周辺を、龍麻とアン子は歩き回った。

火が既に燻る程度に沈み、町人達も少しずつ落ち着いてきた頃。
―――――龍麻はふと、奇妙な気配を感じた。






「緋勇君? どうかした?」






立ち止まって周囲を見回す龍麻に、アン子も立ち止まって問いかける。






「うん、ちょっと……」
「何?」





もう一度問われたが、龍麻も説明が難しい。
何せ気配だけで、更に極端に言ってしまえばこれは勘だった。

それでもアン子は説明を求めているようで、






「変な感じがするんだ。少し」
「……変な感じ?」






感覚的な事を言っても、伝わりようがない。
首を傾げるアン子に、なんて説明しようかと龍麻がまた考えようとした時、






「わッ」
「あッ」







背中に何かがぶつかって、龍麻は少し前のめりになる。
ぶつかったものも後退して、どすっと地面に尻餅をついた。

その際、ジャラジャラと金属のような音が響く。


辺りの視線が、一点に其処に集まった。








「―――――火事場泥棒ッ!!」








アン子が叫んだ。


龍麻にぶつかったと思しき男の顔が青くなる。

地面に散らばったのは殆どが金銭で、他にも簪等の金品の類もある。
焼け焦げた跡の残ったそれらは、恐らく、燃えた家屋から持ち出されたものだ。


男は地面に落ちた盗品を置いて、大慌てで逃げ出した。






「ちょっと、待ちなさいよッ!」






待てといわれて待つ泥棒がいる訳もない。
どんどん逃げて行く泥棒を追って、アン子も走り出した。


――――残された龍麻から、溜息が漏れる。




何処にでもいるのだ、ああ言う類は。
如何な理由、場所であれ、騒ぎの隙間を狙う盗人は絶えることがない。





龍麻は簪を拾って、頭上に掲げて眺めてみた。
焼け焦げた跡だけだと思っていた簪は、結構古い品物だったようで、あちこち傷がついている。

地面を踏む音がして振り返ると、十五歳程の少女が此方をじっと見ている。






「君の?」






簪を見せて問うと、少女はこくりと頷いた。

差し出せば、少女の白い手がゆっくりと持ち上がり、簪を受け取る。
途端、少女の目から大粒の涙が零れ落ちた。







「………お母さん………」






漏れた呟きに、龍麻は目を伏せる。


今の火事で失ったのか。
それとも、それ以前に別れたのか。

いずれにしても、この簪は少女にとってたった一つの残された形見だったのだろう。












………少女の簪を握り締めて泣く姿が、遠い日に見た彼女の泣き顔と重なったような気がした。














人世 : 第三節
また八剣がじれったい(爆)。

江戸時代の町火消しは、消防活動と言うのも“消火”ではなく、炎の広がりを防ぐ為に近隣家屋を破壊しての“消防”をしていました。
この辺をモデルに仕立てて、そんな訳で、文書中に殆ど消火の様子を書かないまま進めました。
時代が進むと竜吐水と言う手押しポンプのような道具も登場しましたが、これは燃え広がった炎を消すには水圧が弱かった為、使用法は火事場に駆けつけた火消しの人々に水を掛ける程度のものだったそうです。
――――だから今回の話の中で、長屋の殆どは燃え尽きてしまったのです。

ちなみに、木立蘆薈(きだちろかい)は、キダチアロエです。
作中で説明できずにスミマセン……