人世 : 第三節












数時間前の賑やかさが、華やかさが、明るさが。
まるで嘘だったかのように、町は静まり返っていた。

それでも、絶やす事の出来ない篝火だけは、ゆらりゆらりと変わらず燃えて踊り続ける。




その道を、疲れた足を引き摺りながら、龍麻は宿へと戻って行った。
傍らにはアン子の姿もあり、彼女の方こそ足が棒のようであった。

けれどもアン子は龍麻に寄りかかることもなければ、弱音を吐く事もなく、ただ強い眼差しで前を見た。
宿へ、自分の家へ戻る道すがら、アン子は火盗改めに会う度に今回の火事について訊ねて回った。
聞いたことは全部記憶して、明日の瓦版に記され、町の人々の目に止まるのだ。

それがアン子が自分に課した役割だから。


辛い事があっても、悔しい事があっても、時に止めたいと手放したいと思う事があっても―――――アン子は自らの手でそれを破棄するつもりはないのだろう。

自らの手で自らに課した重みから、決して逃げない。
漏れそうになる嗚咽を堪えて噛んだ唇に、龍麻はアン子の強さを感じた気がした。




――――――それは、遠い日に見た彼女と同じ。




強いなぁ、と思う。
目の前にいる少女と、今は何も持たない零に戻った彼女と――――本当に強いと思う。


だから龍麻は、憧れる。







ようやく宿が見えて来て、龍麻はふと、今からその宿に入ろうとしている人影を見つける。
その影は自分の良く知る影が二つ、小さな見知らぬ影が一つ。






「京!」






呼ぶと、見慣れた影が二つとも止まる。
背の高い方が振り返った。






「ああ、緋勇」
「良かった。八剣君、一緒だったんだね」
「ああ」






駆け寄る龍麻とアン子に、八剣が頷く。


しかし京子は背中を向けたまま、龍麻の方を見ようとしなかった。
振り返る兆しも見せない京子に、龍麻は首を傾げる。

その京子の足にくっついていた小さな影が、ひょっこり頭を見せる。






「あ」
「君……」






小さな女の子に、龍麻もアン子も見覚えがあった。
京子に毬遊びを教えた子供達の中の一人だ。


煤だらけで、小さな手とまろい頬に火傷の痕がある。
大きな目は赤く充血して、目元も腫れており、あの時見た笑顔と目の前の子供とが中々繋がらない。
目尻に大粒の水が溢れていて、瞬きする度に頬を滑って落ちて行く。

火事の被害に遭った事は、誰もが容易に察する事が出来た。
そして、恐らくこの子の両親が、炎によって永遠に喪われてしまった事も。



アン子がしゃがんで両手を広げると、女の子はアン子の胸に抱き付いて泣き出した。
ぐすぐすと、喉が度々引き攣ったような音を上げて、それでも子供は泣くのを止めない――――止められない。

泣きじゃくる女の子を抱き締めて、アン子は歯を食い縛った。
それを見下ろす八剣の瞳は静かで、重く、昏い。
傍らで立ち尽くす京子は、やはり振り返らなかった。


しばらくそのままで動かなかった五人に、動き出す切欠を作ったのは、アン子だった。






「この子、あたしが預かる」






八剣を見上げて、アン子が言った。






「親戚がいた筈だから、その人達が迎えに来るまで、この子はあたしが預かるわ」
「大丈夫?」






龍麻の問いに、アン子は躊躇わずに龍麻に向かって頷く。
それからアン子の視線は、また八剣へと向けられる。






「いい?」
「……そうしてくれると、助かる」






八剣は傍らで黙したまま動かない京子を見遣り、答えた。

龍麻とアン子の視線も、京子へと向けられる。



宿を飛び出して行った時の勢いなど、其処にはない。
龍麻の位置からは彼女の顔が見えないから、どんな表情をしているのかは判らなかったけれど、纏う気配で判る。
いや、表情を見れないからこそ、言葉よりも雄弁に語る彼女の気配が、今の彼女の心情を吐露している。

ゆらゆら、ぐらぐらと、元より不安定だった空気が、今にも崩れそうなほどに揺れている。
其処に立って歩いているのが不思議な程に、今の彼女の足元は酷く脆い地盤で出来ていた。


恐らく、八剣は間に合わなかったのだ。
炎に近付く彼女に追い付けなかった。

龍麻には、彼女の足元の影から、何かが彼女の内側へ這いずり込もうとしているのが見える気がした。




アン子の腕の中で泣きじゃくっていた子供が、鼻を啜って振り返る。






「きょーこおねえちゃん……」






ぴくり、と京子の肩が揺れる。
此処に戻ってから初めて見せた京子の反応。



くるりと京子が踵を返し、アン子と女の子に近付く。

腰を曲げて腕を伸ばすと、その手は女の子の頭にぽんと置かれた。
撫でるでも軽く小突いてやる訳でもなく、ただ置いた。


京子の表情は、見上げる女の子とアン子だけにしか見ることが出来ない。


女の子が小さく笑い、アン子が泣きそうに顔を歪めた。
アン子の顔は女の子には見られることがなく、それは幸いだったのだろう。
龍麻からは見えない京子の表情の本当の意味を、子供は知らずにいられたから。







「じゃあ、また後でね」







女の子の手を握って、立ち上がったアン子が言った。
その時には既に京子は背中を向けていて、聞こえていた事だけを知らせるように片手を上げる。

女の子が龍麻に手を振った。
またね、と笑うと、透明な雫はそのままだったけれど、女の子は笑った。
八剣が少しだけ安堵したような表情を浮かべていたのが、視界の端に映った。









宿の入り口を照らす篝火が、パチリと音を立てて爆ぜた。

京子はもう、篝火を見なかった。













































顔が見たい。

京子の顔が見たい。








龍麻はそう思った。
殆ど唐突に。



見たければ見れば良い、彼女は直ぐ傍にいる。
行灯の光が届かない部屋の隅で、蹲って動かない。

顔が見たければ彼女に近付けばいい。
それだけの事だ。


――――――けれど、それだけで龍麻が見たいと願う彼女の顔が見れる訳ではない。






部屋に戻って直ぐに、京子は膝を抱えて蹲った。
龍麻が行灯に火を灯すと、京子はその灯りを嫌うように場所を変え、今の位置へと収まった。

障子に囲われた箱の中で揺れる小さな灯は、今の京子にどんな風に映るのか。
しげしげと、網膜の痛みも構わずに炎を飽きずに見つめ続けていた筈なのに、今はその存在を敬遠している。
篝火よりも余程小さな灯を。


八剣はそんな彼女に寄り添うように座しているが、彼もやはり、京子の顔を見てはいない。
龍麻から見れば八剣の表情も伺うことは出来なかった。



龍麻に唯一判るのは、京子の纏う気配が、時間が経つ毎に深く昏い色を宿していくと言う事。




ほんの数時間前に、遠い記憶に取り残されていた気配が、微かに蘇ったような気がしたのに。
今はそれが急激な速さで失われていくのが龍麻には判った。

その速度が、遥か昔、太陽が世界から失われた瞬間の喪失感を髣髴とさせる。







「――――――京」







呼んでも京子は動かなかった。
構わず、龍麻は立ち上がって京子の傍に歩み寄る。






「京、寝よ?」
「………」
「疲れたでしょ。休もう」
「………」
「ほら、こっち」






京子の手を取って引くと、彼女は素直にそれに従った。
緩慢な動きで立ち上がり、引かれるままに覚束ない足取りで龍麻について行く。



部屋の中は京子が宿を飛び出して行った時のままで、布団も敷いたままになっていた。
京子を其処に横たわらせると、京子はうつ伏せになって敷布に顔を埋める。


ふと、龍麻の耳に外界の喧騒が届いた。
此方も開け放ったままにしていた窓から聞こえたもので、龍麻は直ぐにそれを閉める。
明瞭だった火盗改の声がぼんやりとしたものになり、少しほっと息を吐く。

今はこの空間の静けさを乱すものは、出来るだけ介入させたくなかった。


それでも京子は落ち着かないのか、寧ろ静かだからこそ還って息が詰まるのか―――――もぞもぞと身動ぎして、敷布を握り締めていた。






「寝れる?」






もう一度京子に歩み寄って、問いかけて見る。

京子は答えなかった。
首を振る事もせずに、布団を握り締めては離し、離しては握り締め、身動ぎを繰り返す。


敷布を握り締める彼女の手に、自分の手を重ねてみる。
冷たく冷え切った肌が彼女のものと一瞬思えなくて、龍麻は泣きそうになった。

だけれど此処にいるのは間違いなく彼女であって、触れている手も彼女のものであって。



龍麻は頭を振って、自身の着物の懐に手を入れた。
手に触れたものを取り出して、京子の手のひらにそれを置く。






「京、これ握ってて」
「………?」






京子が僅かに顔を上げて、自分の手に重ねあわされたものを見る。
其処にあったのは、沢山の珠に連ねられた、奇妙な形をした石。


握れと言われて、京子はその理由に疑問に似た感覚を覚えつつも、言われたとおり、握る。
すると奇妙な形をした石がほんのりと明かりを灯した。

ぱちぱちと爆ぜながら揺れる篝火とも、全てを飲み込まんと唸る炎とも違う、柔らかで淋しげにも見える光。
その光の色が、今は見えない月の光と同じ色をしていると、京子は辛うじて思い出した。
傍ら、握った手のひらから温かな気配がして、不思議に思いつつもそれは決して嫌ではなく。






「たつま………」
「うん。いいよ。持ってて」






手放すのがなんだか嫌で、京子は石を握ったまま、龍麻を呼んだ。
龍麻は小さく笑みを浮かべて、頷く。

龍麻のその笑みと、淡く光る石を見て、似てるなァと京子が思ったことを、龍麻は知らない。




京子が石を手繰り寄せて、胸で抱くようにして丸くなる。
それに掛布をかけてやって、龍麻は朧の意識になっている京子の顔を覗き込んだ。

喧騒から切り離す為に障子窓を閉めたから、此処に星明りは届かない。
仕切りの障子戸の向こうに照らした行灯の灯は、自分が影になってしまっているから、京子の顔を照らし出す事はなかった。
淡い光を放つ石は、彼女の手の中にすっぽり納まっているから、此処にはもう光源は残っていない。






顔が見たい。
ちゃんと見たい。

ただ見たいだけじゃない、笑った顔が見たい―――――………

だけれど、今はそれは出来ない。




陰でも薄らと輪郭を確認することは出来る。
閉じられた瞼の形、薄く開いた唇、微かに聞こえる小さな呼吸。
その輪郭から見ることの出来る寝顔は、決して穏やかではない。

だからどうしたって、今、彼女の笑った顔を見ることは出来ない。







消えかけていた京子の気配が、少しずつ安定していく。
それを最後に確認して、龍麻は彼女から離れた。



障子戸を閉めると、完全に空間は仕切られる。

締め切った後で少し開けた方が良かったかと、八剣の役目を思い出して考えた。
何よりも彼女を守護することを役目としている彼にとって、彼女の姿は既に確認できる方が良い筈。
けれども、何も言われなかったので、龍麻がその障子戸をもう一度開けることはなかった。


ゆらゆらと灯火を揺らす行灯に、暗色の薄布をかける。
元より小さく頼りなかった光は薄い布地に遮られ、辛うじて室内の陰影が拾える程度のものとなった。




そのまま沈黙が支配するかと思った室内。
だが龍麻の予想に反して、一つ零れた言葉が沈黙の蚊帳を押し退けた。







「あれは、《足玉(たるたま)》かい?」







京子が傍にいる間も、此処を離れてからも、一言も発さなかった八剣からの問い。
龍麻は特に驚くこともなく、頷いた。






「ないよりは良いと思って。この前、取りに行ったんだ」
「まだ祀られていたとはねェ」
「僕もないかもって思ってたんだけど……良かった、見つかって」
「………ああ」






同意した八剣の視線は、閉じられた障子の向こうに向けられていた。

ゆらゆらと不安定に揺れていた、少女の気配。
ともすれば消えて行きそうだったものが、今はようやく程度ではあるものの、障子一枚越しにも落ち着いたものとして確認できる。





彼女の失われかけた気配を現世に繋ぎ止めたのは、龍麻の渡した石――――《足玉》の力に因る所が大きい。



《足玉》は、“ヒト”が手にしても只の装飾としての役目しか持たないが、龍麻や京子が触れれば違う。
あれは龍麻達の力を補助する能力を有し、僅かではあるか増幅させる事が出来る。

今の京子にとって、それは何よりも大きな意味を持つ。


力を失い、記憶を失い、自分自身すらも見失った京子の持つ力は、本来のものに比べると雀の涙程度しかない。
自分の存在を繋ぎ止める事さえも、今の彼女にとっては漸くと言うものでしかないのだ。
何が切欠で失われてしまうのか、それは龍麻にも図り切れない。

それを少しでも補うことが出来るのが、《足玉》だ。
この《足玉》が抱えた力も、やはり本来のものに比べると随分衰えてはいるが、能力そのものは失われていない。
ならばほんの少しでも構わない、彼女を繋ぎ止める術になるのならば使わない手はなかった。



全てを失った京子は、恐らく《足玉》の事も知らない。
それがどういう物であるのか、どういう役目を持っているのか、自分に必要なものであると言う事も。

それでも受け取って手放そうとしなかったのは、無意識にも感じ取るものがあったからだろうか。
淡い月の光を放つ石に、少しでも彼女の胸中が穏やかになるのなら良いのだけれど。






「次に起きたら、ちょっとは落ち着いてるんじゃないかな」






その時には、彼女の足元で渦巻いていた影も失せているだろう。

だから一先ず、彼女の事は心配ない。
何か不穏な気配があれば、きっと自分も八剣も気付ける筈。


だから、龍麻にとって今最も懸念するのは、最早彼女のことではなく、





「…………緋勇」






名を呼んだ男は、此方を見てはいない。
かと言って、障子戸の向こうの少女を求めてもいなかった。






「言った筈だね。迷っていると」






示す事柄を抜いた言葉でも、龍麻は悟る事が出来た。




京子を“天の塔”から連れ出して最初に野宿をした時。
龍麻は八剣に、何故付いてきたのか、何故京子を“天の塔”から連れ出す事を厭わなかったのか訊いた。

それに対する八剣の返答は、「迷った、そして今も迷っている」と言うもの。


全ての刻が止まった世界で、泣くことも怒ることも、笑うことも忘れた、彼が守るべき唯一無二の存在。
彼女の“存在”を何よりも礎とする八剣にとって、彼女が危険に晒される事は何よりも避けるべき事項だった。

それでも彼女が彼女の意思で外に出たいと言ったから、八剣はそれを取り上げようとは思わなかった――――少なくとも、その時は。
久しく見ることを諦めていた彼女の笑顔が、もう一度見られるかも知れないと言う欲に負けて。



だから「迷った」。



役目と願いと、それは八剣にとって天秤にかけて選べるものではなかった。

そのどちらもが彼女と言う存在があってもので、彼女を取り巻く世界が存在してこそのもの。
彼女の笑顔が二度と見られるものではないと言い切っていられたから、それまで願いこそすれ応える事を選ばずにいられたのに、それを龍麻が打ち破ってしまったから。


願ってしまった。
彼女の笑顔が見れるのならと。

叶えたいと思ってしまった。
そうして、昔のように笑ってくれるのならと。




己の手で捨てた、彼女の笑顔を、もう一度と――――――欲してしまった結果が、これで。







「………戻すの?」







龍麻は、緩みかかっていた身体が、また緊張していくのを感じていた。
解けていた拳を無意識に強く握り締める。






「連れ戻すの?」
「……人世は、色んなものが溢れ過ぎている」






彼女が喜ぶようなものも。
彼女を傷つけるものも。

此処には多過ぎる。


龍麻の言葉に否定をしない時点で、八剣の音にならない答えは明確になっていた。






「世界が彼女を奪うなら、俺はそれを拒絶するよ」
「……京がそれを嫌だって言っても?」






八剣は、京子から何かを取り上げることをしない。
ただ一つ例外があるとすれば、それは彼女が“存在を失う”と言う事。


京子が京子として―――例えそれが彼女らしくない姿であるとしても―――“存在”しているならば、多少の危険など八剣にとって問題ではない。
彼女自身の強さをよく知っているし、そうでなくとも八剣は彼女を守るだろう。

だけれど、彼女がこの世界に存在することさえもなくなってしまう可能性があるのなら。
それが誰かに奪われるというものではなく、彼女自身が自らの“存在”を手放してしまうとしたら。
その起因にもなり得る環境の中、八剣は彼女をそのままにしておく事は出来ない。













笑うようになった。
拗ねるようになった。

その感情の生まれる場所と理由を、彼女は今も解ってはいないけど。


痛いとか。
苦しいとか。

その感覚の意味を、彼女は今も捉まえる事が出来ないけれど。





望むのは、彼女が“生きている”と言う事だけなのに、その為の“罪”が、酷く重い―――――――――………

















人世 : 第四節
すんごくじれったい八剣。

京ちゃんの笑った顔が見たいけど、それを望んで叶えようとすれば彼女が危険に晒される。
優先順位の一番上が京子で、彼女の存在も気持ちも大切で、それは絶対揺るがない。
だから余計に迷うのです、彼女の願いと安全と。


この話については、龍麻が物凄く男前になって行く気がします。
龍麻がそんなだから、京ちゃん、すっかりお姫様状態ですね(今だけ今だけ)。