人世 : 第四節 幼い頃からずっと見て来た。 彼女が覚えていない程に遠い記憶から、ずっと。 最初に手が触れた瞬間を覚えている。 最初に見た笑った顔を覚えている。 彼女が覚えていなくても、それがどんなに遠い昔の記憶でも、八剣にはそれを忘れることは出来ない。 子供らしく拗ねた顔も、照れ臭くて怒った顔も、気に入らない事になると眉間に皺を寄せるのも。 悔しくて頬を濡らした瞬間も、我慢して我慢して我慢し切れなくて声を上げて泣いた時の事も。 酷く荒れていた時期の事も覚えているし、その後の漣のように凛と佇む彼女の後姿も覚えている。 握り締めた刃を何よりも信じ、真っ直ぐに向けて、決して逸らさない強い眼光も。 誰よりも先頭を走る彼女の、太陽のような“氣”を憶えている。 忘れられる訳がない。 忘れるなんて出来る訳がない。 それが彼女の生きた証なのだから。 その生きた証を彼女から奪った瞬間から、八剣は己は決して忘れるまいと誓った。 自分にか、全てを忘れて眠り続ける彼女にか、恐らくはその両方に。 犯した罪の重さは解っているから、誰よりも理解しているつもりだから。 彼女から奪ったものを一人抱えて、奪われた少女の傍にいる。 そんな事をすれば自ずと記憶の中の少女を、目の前の少女に投影させる苦痛があると判っていて。 彼女が自分自身を全て喪ったとて、八剣にとって彼女の存在が唯一無二である事には変わりはなかった。 だから目の前の少女が、八剣が遠い記憶からずっと見て来た彼女と僅かな食い違いがあるとしても、八剣は彼女を手放す事など出来なかった。 変化のない小さな世界に閉じ込めて。 奪った感情と記憶を呼び覚ます術を奪い続けて。 光のない瞳と、笑わない彼女をずっと見て来た。 ―――――後悔しなかったのかと訊かれると、正直な所、よく判らなかった。 似たような感情はあったかも知れないが、それは郷愁の念に似たもので、後悔と言うには少々違ったように思う。 かけた言葉に返事をしない彼女に、淋しさを覚えながら、安堵を感じていた。 笑わない、けれども傷付いて涙する事もない。 遠い記憶に沈みかけていた、彼女の滅多に見ない泣き顔は、八剣の胸中を突き刺す程に悲痛だった。 だから笑ってくれない淋しさよりも、彼女が悲しむ事がない方が、八剣にとっては大きな部分を占めていた。 払った代償は、やはり考える度に酷く重く圧し掛かって来るけれど。 時々、笑った顔が見たいと思う時があった。 泣き顔じゃなければなんでもいい、何か見たいと思う時があった。 けれどもそれを奪ったのは八剣だから、いつしかそれも諦めた。 全てを失った彼女の傍らにいる事が、八剣の贖罪であり、幸福でもあったから、これ以上は望むまいと。 けれども、それは打ち壊される。 いつかは来るだろうと予期されていた、一人の少年によって。 八剣と時同じくして彼女と出逢った少年は、八剣とは違う立場で彼女の隣に立っていた。 一歩引いて彼女の後ろに佇む八剣に対して、少年は常に彼女と同じラインに存在する。 彼女もそれを赦していた。 彼女は、そんな彼の事も忘れていた。 根こそぎ奪ったのだから、当たり前だ。 けれども彼は構わなかった。 彼女が忘れている事に、憤りも何もなく、以前と同じように微笑んで見せる。 そして、遠い昔の彼女が彼にそうしたように、彼は彼女に手を差し出し、外の世界に連れ出した。 彼は彼女に遠慮をしない。 彼女が彼に遠慮も躊躇もなかったように。 幼い日。 彼女がしたいと言った事でも、彼はしたくないと言う事があった。 彼がやってみたいと言った事でも、彼女はやりたくないと言う事があった。 それでも不思議と喧嘩になる事はなくて、何度か言い合った末に、やりたいと言った方にやりたくないと言った方が折れた。 彼女が彼の興味事に参加するかは気紛れだったが、傍に付き合う程度は常だった。 言いたい事は、歯に衣着せずにはっきり言う。 そんな相手の存在の、どれ程大きなことか。 久しく長い別離の末の今も、彼の彼女への態度は変わらない。 今は彼女が幼子のような顔をするから、少しだけ違いは見られるけれど、それも次第に元の形に戻るだろう。 だから彼は、彼女を強いと言って憚らないし、八剣の懸念も杞憂だと言い切る。 籠の中に閉じ込めても、彼女の本質は変わらない。 あの太陽のような“氣”が、彼女自身から失せてしまった訳じゃない―――――― だから少年は彼女を外へ連れ出して、奪われた彼女自身を少しずつ注ぎ直して行く。 信じている。 彼はきっと、誰よりも彼女を信じている。 彼女が笑えば、嬉しくて。 彼女が傷付けば、やはり酷く苦しくて。 それらは表裏一体だから、どちらかが生まれれば、もう片方も生まれるものだ。 片方だけを望むなんて、彼女を歪ませてしまう事になる。 笑って欲しくて、傷付かずにいて欲しくて。 だから笑った顔を見る度、八剣は喜びを感じながら不安が付き纏う。 笑顔の影で誰にも告げずに痛みを抱えていた彼女を思い出す。 誰にも言えずに、一人で飲み込もうとしていた小さな背中を思い出す。 その度、八剣は言いようのない不安に駆られて。 その時も、少年は、彼女が何も言わないのなら何も言わずに。 重荷に押し潰されそうでも、彼女が手を伸ばさないのなら伸ばさなかった。 ……ただ、彼女の強さを信じていた。 そんな風に、揺るがないほど信じる事が出来たなら、あの日の自分は罪を犯すことはなかっただろうか。 酷く重い空気が、室内を支配していた。 連れ戻すの、と言う龍麻の問いに、八剣は頷くことはなかった。 なかったが、否定の言葉もなく、彼女が此処にいる事を否定する言を取る。 八剣の天秤がどちらに傾いているかなど、考えなくても判ることだ。 けれども、龍麻も譲れない。 「京はそんなに弱くないよ」 静かなトーンで告げられた言葉に呼応するように、行灯の小さな灯がゆらりと揺れる。 「知っている。彼女は俺が必ずしも守らなければならない程、力を持たない訳じゃない」 「…………」 「けれど、今の彼女の力は、自分自身を守る術すら持てないんだ」 例えば―――――この町に来るまでの道中、野盗に襲われて、彼女は小さな傷を負う事になった。 そのほんの少しの小さな傷でも、今の彼女にとっては災いの元になる。 大気中に存在している小さな菌に対しても、彼女の免疫力や抵抗力は勝つ事が出来ない。 彼女に害を成すものは、あらゆる場所に散らばっている。 人気の多い場所に行けば、それだけ彼女の心身に影響を齎すものは増える。 世界に存在するものには、須らく“氣”が流れている。 人には人の、草花には草花の、動物には動物の、妖には妖の、それぞれの“氣”がある。 そしてその“氣”の流れや波動は常に変化し、それらの持つ感情と共に動く。 それらの中には、京子の意識を昏い場所へと引きずり込もうとするものもある。 自分自身すら庇護する術を持たない今の京子は、一度引き摺られてしまえば自分で戻る事が出来ない。 其処に行く前に繋ぎ止めなければ、彼女はあっと言う間に連れて行かれてしまうだろう。 悲しみや怒りや憎しみや――――それらの感情の“氣”は、特に引き込む力が強い。 人の多い場所に行けば、自然とそれを感ずる機会も増える。 下より脆い地盤の上に辛うじて成り立っている彼女の“存在”が、喪われてしまう可能性は高くなる。 「緋勇には悪いが、俺はどうしても世界を元に戻したいとか、そう思っている訳じゃない」 「……うん」 八剣の言葉に、龍麻は非難も軽蔑もしない。 彼が優先すべきは京子であって、世界ではない。 彼女が世界を優先しろと言うのなら、そうするかも知れないが、それもあくまで“彼女がそうしろと言った”からだ。 「世界から太陽が失われても、彼女は生きていられる。俺達が覚えている限り、彼女は存在し続ける事が出来る。力が失われたままでも。………京ちゃんが自ら自分の存在を否定しなければ、だけどね」 “天の塔”で暮らしていた日々が、そうだった。 彼女は何者にも興味を示さなかったけれど、消えることなく、其処にいた。 嘗ての姿を思えば霞のように儚げではあったけれど、八剣が呼び続けた名は、確かに彼女を現世に留めていた。 世界がどんなに変わっても、その“存在”を忘れることがなければ、彼女が消えることはない。 どれだけ沢山に人に忘れられたとしても、八剣や龍麻が忘れなければ、彼女は此処に存在する。 龍麻が彼女を此処に繋ぎ止める為に渡した《足玉》も同じ。 あの小さな御堂が忘れられていたら、あれもただの石くれになっていた。 誰かが自分を知っていてくれるから、自分達は存在していられるのだ。 「俺は彼女の傍にいられるなら、このまま世界が崩れても良いと思ってる」 「………うん」 「…緋勇や京ちゃんが背負っているものを、台無しにする台詞だとは、判っているけどね」 「……うん」 譲れないものは誰にでもある。 八剣にとっては、彼女の存在がそれだ。 はっきりとした優先順位が八剣の中にはあった。 「……だから、京をあそこに連れ戻そうと思ってる――――?」 龍麻の問いに、八剣は答えを口にしなかった。 引き結んだ唇は、肯定せずに、否定をしない。 迷っていると言っていた。 “天の塔”を後にした時から、ずっと。 彼女に危険を感じたら、連れ戻すかも知れないと。 返事をしないと言う事は、まだはっきりと定まっていないからだろう。 彼女の気持ちを優先すべきか、彼女の安全を思うべきか。 龍麻は八剣ではないから、彼がどうしたいと思っているのか、奥底までは判らない。 「……でもやっぱり、ないと思うな」 ぽつりと呟いた龍麻に、八剣が顔を上げる。 龍麻は、小さな笑みを浮かべていた。 「昔からそうだよ。京がやりたいって言った事、八剣君は止めなかった」 「それ程危険な事をしたいと言っていた訳じゃなかったからね」 「そうでもないよ。川遊びでも町に下りるでも、京って直ぐに一人で何処かに行っちゃうから、全然危なくなかった事って少なかったと思う。でも八剣君は、それで京に怒った事もないし、もう駄目だって言った事もなかった」 「―――――だから、それは―――――」 何かを言いかけて、また八剣は口を結ぶ。 龍麻の言葉は事実だ。 常に先頭を切って走る彼女を、八剣は止めたことがない。 止めても聞かないのも事実で、何より迷わず走る彼女が好きだった。 何かあれば自分が守ればいい。 ずっとそう思っていたから、八剣は彼女から何も取り上げなかった。 …………あの時犯した、一番重い罪を除いて。 「京が起きるまで待とうよ。それから、もう一回、京に訊こう」 黙した八剣に、龍麻は淡々と話す。 「もう無理やり連れ戻したんじゃ、納得しないよ」 八剣の事だ。 二度も彼女から全てを奪うような真似はしないだろう。 龍麻はそう思っていて、それは間違いないと思う。 小さな世界から外へと飛び出して。 花を見て、草木を見て、動物を見て、川を見て、月を見た。 人里に下りて、沢山の人と接して、消えない沢山の篝火を見た。 其処には嬉しい、楽しい、面白いと思うものがあって。 痛い、苦しい、悲しいと思うものがあって。 それらが一挙に押し寄せたから、今は飽和状態になっているけれど。 小さな世界に存在しないものを、短い期間ではあったが、彼女は知った。 眠り続けていたありとあらゆる感覚が目を覚まし、生まれた感情の奔流はもう止められない。 八剣が言う危険もある。 でもそれがあるから、彼女は生きている。 “存在”して、“生きて”いる。 幼い頃からずっと見て来た。 彼女が覚えていない程に遠い記憶から、ずっと。 最初に手が触れた瞬間を覚えている。 最初に見た笑った顔を覚えている。 彼女が覚えていなくても、それがどんなに遠い昔の記憶でも、八剣にはそれを忘れることは出来ない。 だから。 彼女が、言い出したら聞かない性格をしている事も知っている。 今になって無理やり連れ戻した所で、以前と同じには戻れない。 茫洋とした光のない目で日々を過ごす彼女は、きっと其処にはいないのだ。 閉じ込めれば、きっと開かない扉を開けようとするだろう。 開かなければ壊そうとするに違いない。 宥めて聞くような子ではなかったから、それは容易に想像が付く。 本気で連れ戻そうと思っているなら、そうなる前に、彼女が外に出て直ぐに攫うべきだったのだ。 外の世界を知らない内に、眠っていた感情が呼び覚まされる前に。 彼女が彼女自身の意思で、外にいたいと望むようになる前に。 彼女を外へと導く少年の手から。 それをしなかったのは、彼女の笑顔が見たかったから。 ……迷いながらでも、迷っていても。 選んだ時点で既にその瞬間には戻れない事は、嫌と言うほど判っていた筈だ。 光のない瞳で、小さな窓から変わらない夜の空を眺める彼女を見つめていた時から、ずっと。 犯した罪を消せないのと同じように。 どうして、信じることが出来ないのだろう。 彼女と同じラインに立つ少年のように、揺るぎなく信じることが出来ないのだろう。 彼女を“護る”のが自分の役目だから―――――かも知れない。 弱いか弱くないかに関わらず、彼女をあらゆる出来事から“護る”のが八剣が自分に貸した役目だから。 彼女がやりたいと言う事は、全て自由に、彼女の意思に任せた。 それがどんなに危ない事でも、些細な事でも。 傍らには自分がいるのだから、何があっても護るから。 傷付く事があるのなら、傷付かないように護るから。 少年ならどうするだろう。 一緒に同じことをして、彼女が怪我をしたら、同じように怪我をするのだろうか。 彼は、何処までも彼女と同等だから。 だから彼女が全てを失った今でも、彼女の強さを信じ続けていられるのだろうか。 信じたい。 守りたい。 生まれる場所は同じである筈の感情が、何故こんなにも相反して存在するのだろうか。 夢路の翳 : 第一節 こんな八剣はうちでは珍しいなぁ…… 京ちゃん一筋なのは変わらないけど、根底にあるものがいつもと違います。 だからこんなに焦れったい。 そして龍麻と八剣の会話は何度書いても神経が磨り減ります…… |