全部、初めてだったんだ


























One step of start. 前編



























手を繋いでくっつきあって、愛を囁き合いながら歩く男女。
それをなんとなく目線で追ってから、何やってんだオレは、と京子はがりがりと頭を掻いた。





高校三年生の女子ともなれば、人によって差異はあれど、それなりに色恋に携わった経験があるだろう。
恋人を持った事がなくとも、人気の先輩に憧れているだとか、誰それに慕情を寄せるだとか―――――

けれども京子は、そんな経験もなければ、そんな環境にも身を置いていなかった。
小学生の時に家を飛び出し、学校にも行かなくなって、ごっくんクラブ『女優』に居候するようになった。
中学の頃は一番荒れに荒れていた時期で、身の回りにあったのは、喧嘩のみ。
色恋に携わるような環境でもなければ、その手の意識が彼女に芽生える事もなかった。


異性を“異性”として認識した事は、はっきり言って、皆無であったと言っていい。
故に、京子の恋愛経験値は零であった。


別に、それを気に病んだことはない。
周りが恋の話で盛り上がろうと、話を振られようと、京子は「興味ねェ」の一言だ。
誰かに「あの人格好いいと思わない?」なんて言われたって、やっぱり出てくる台詞は「どうでもいい」類のものばかりだった。

唯一京子が気にかかっている身の回りの色恋事と言ったら、友人の醍醐と小蒔の事ぐらいか。
あれも、例えば何某かけしかけて、くっつけようと画策したりなんて事には、まるで興味が湧かないが。
ただ醍醐の意外な一途さに、もう少し報われりゃいいな、と思う程度の事だった。



どんなに周りがせっついても、京子にとって恋に関する話題は、己とはなんの関係もないものだった。
今までも、これからも、そういうものなんだろうと。






それが何故、道行くカップルなんかを目で追っているのだろう。






自分の行動の理由が全く理解できずに、京子は顔を顰めた。
あんなもの、今までだって幾らでも見てきただろうに。
今更それを目で追って、その行動の一部始終を気にして、一体何が変わるのか。

自分らしくない行動だった。
まるであれらに憧れているみたいで。



―――――――思ってから、京子はふと立ち止まる。









(―――――……いや、ンな訳ねェな)








憧れている。
浮かんだその単語が、一瞬何かに引っ掛かったような気がした。

しかし直ぐに頭を振って打ち消すと、また歩き出す。








(阿呆くせェ)








自分は、そんな可愛い性格ではない。
恋に恋して、誰彼に憧れて、その人物と懇意になりたいと思うなんて、在り得ない。
そんな相手もいないし、何より自分自身がそういう事項に興味がない。

女らしさとは程遠いと、自分自身で自覚があった。
故に、それに起因すると思われる恋愛事も自分とはまるで関係ないのだと。


可愛いぬいぐるみやアクセサリーを見ても、特に思う事はない。
それらを身につけた綺麗な女性を見ても、アレ邪魔にならねェのか、としか思わない。

過去に数回、多分イケメンと呼ばれる類に入るだろう男にナンパ紛いをされた事はあった。
あったが、鬱陶しいの一言で、しつこく付き纏ってくる輩には直々に制裁を加えた程である。
可愛いと言われてもちっとも嬉しくないし、洋服や髪型を褒められたってなんとも思わない。
それなら、剣の腕を褒められた方が、照れ臭いけれどずっと嬉しかった。

……考えれば考えるほど、女らしさとは程遠い人格だと再認識する。



それがどうして、道行くカップルなんか気にかけたのか――――――



そう考えて、京子は今日一日の自分の行動を振り返り、其処に浮かんだ幾つかの顔に、ああそれでかと納得する。









(葵だ。アイツが阿呆みてェな事言ってやがったんだ)








スカートが捲れようが、誰かに見られようが、お構いナシに京子は教室からグラウンドへ飛び降りる。
場所など問わずに胡坐を掻いて、葵からは散々注意されて来た。

もうちょっと自分が女の子なんだという事を自覚して、と。


言われる度に京子は生返事をして、結局日頃の行動は直さない。
第一、どうすれば“女の子”を意識した行動になるのかが全くと言って良い程判らなかった。


葵を見習うのが一番手っ取り早いかも知れないが、想像しただけで鳥肌が立った京子であった。
小蒔は胡坐を掻いたりはしないものの、その言動は女らしいと言うよりは、ボーイッシュか姐御肌である。
後に思いつくのは遠野だったが、(確かに彼女は普通の女の子らしくはあるが)頭の天辺から爪先までジャーナリスト根性で出来ている少女である。
スクープ狙いの張り込みの為に、土中に埋もれることさえ躊躇わない人物を、女らしいと言って良いのかは怪しい所だった。

他にもクラスメイトを数名考えてみたが、生憎、京子が仲の良い女子生徒は少なく、情報不足。
残るは担任のマリア・アルカードであるが―――――彼女も恐らく、葵の言う“女らしさ”とは一線を画しているだろう。




そして、回り回って、「今のままが一番楽」という結論に行き着くのだ。




そんな調子で一行に行動の改まらない京子に、葵は溜め息を吐いて呟いた。


――――――恋でもすれば、変わるかしら、と。









(それこそ、オレにゃ在り得ねェだろ)









自分が、誰かに恋をする?
しかも、恋をすれば女らしくなる?

……考えただけで寒気がする。


一緒に話をしていた小蒔と遠野は、大笑いした位だ。
葵が、彼女自身の性格から考えても、至って真面目に言っているのは判るつもりだが。



あんな会話をした後だったから、カップルなんか目で追ってしまったのだ。
つまりは、ああいう風になるのか―――――と、他人事染みた感情で想像をする為に。


馬鹿げた事だった、と京子は頭を掻いた。
結局、想像も何も浮かんでこないし、無駄でしかなかった。
やはり、その類の話は自分には無縁なのだと。






街頭の時計を見上げて、時間を確認する。
今日の夕飯はラーメンと決めていた。
しかし時刻は未だに午後4時半を回ろうかという所、夕飯にするには早過ぎる。

いつもならこの時間は、何をするでもなく、龍麻と街をブラブラしているか、吾妻橋達とつるんでいるか。
それが今日はどちらも都合が着かず、龍麻とは夕飯を共にする約束をして別れたきり。

後二時間弱、一人で時間を潰す他ない。



暇だな、と京子は呟いた。
誰に対してでもなく。

……だから、それに返事が返ってきた事には本気で驚いた。









「そんなに暇なら、俺と一緒にデートでもどうかな?」









人が雑多に存在する、東京都心の新宿駅前である。
背後に人がいようといまいと、そんな事を気にする訳がない。

しかし、全く気配がしなかった事に、京子は一瞬肩を跳ねさせた。


告げられた言葉が、ナンパの類である事に気付くまで、それ程時間はかからなかった。
京子は立ち止まって木刀を握る手に力を込めると、凶悪と言っていい表情でゆっくりと振り返る。
ふざけたナンパ男を一蹴するつもりで。

……だが其処にいたのが知り合い――と言って定かではないけれど、少なくとも顔は知っている――だった事に、瞠目した。







「……何やってんだ、テメェ」







東京都心の新宿駅前に、紅梅色の着物と緋色の八掛という、なんとも異様な出で立ち。
異様と言えば、何処に行くにも木刀を手放さない京子もそうかも知れないが、この人物はその上を行く。
着物に草鞋という和装して、今日は腰には何もないが、京子は其処に刀が位置する事を知っている。

拳武館十二神将の一人、八剣右近である。


決して穏やかではない最初の邂逅から、成り行き的に交流を持つようになった。
京子にとっては甚だ不本意であったが、相手は何故か嬉しそうだ。



眉根を寄せる京子に、八剣はくすりと微笑み、







「退屈そうだったから、暇潰しの方法を提案してみただけだよ」
「……それでお前とデートだァ? 虫唾が走らァ」
「つれないね」







京子の言葉に、特に傷付いた様子もなく、八剣は笑みを湛えたまま。


歩み寄ってきた八剣から、逃げる訳ではないが、京子は半歩下がった。

―――――どうにも苦手なのだ、京子は。
この八剣という人間が、この人間が取る行動が、己に対する扱い方と言うものが。







「今日は一人かい?」
「……見りゃ判んだろ」






一歩分の距離を保つ京子に、八剣もそれ以上は踏み込まない。
しかし隙を見せればいつ間合いに入られるか判ったものではないから、京子は警戒を解かなかった。







「今後の予定は?」
「……なんでお前に言わなきゃならねェんだよ」
「いいじゃないか。別に邪魔しようとは思ってないからさ」







笑みを浮かべたままで、八剣は言う。
京子は八剣の言動の真意が読めず、眉根を寄せた。







「あまりそういう顔をしない方がいい。綺麗な顔をしてるんだから」
「オレの勝手だッ」
「俺が嫌なんだよ。女の子は笑っている方がいいんだよ? 京ちゃん」







八剣の発した一つの単語に、京子はあからさまに顔を顰めた。


―――――――“女の子”。

この男は、何かと京子をそうであると意識して接してくる。
京子が女であるから、女の子だから、そう言って。


自分が女らしさとは程遠いと自覚がある上、その言動から、周囲もあまり京子を女扱いする事はない。
舎弟達でさえ呼び方は「アニキ」で、『女優』の人々の京子の性格を理解しているから、変に女を意識させる事はなかった。
真神の生徒達も同様、中学からの付き合いのある醍醐は勿論、龍麻だってそうだ。

葵も何くれと注意をするものの、それは女から見る視点での事で、何も京子の意識を正そうとしている訳ではない。
モラル的な観点から言って気をつけるべきだと、そう言っているだけだ。
事実、葵は自覚しろとは言うものの、女らしく振る舞えとは言わなかった。


だから、八剣だけなのだ。
京子に面と向かって“女の子”を意識させるような言動を取る者は。

故に、京子は八剣が苦手だった。




見るからに顔を顰めた京子に、八剣は小さく息を吐く。
仕方がないね、とでも言うような表情で。







「それで、京ちゃんの今後の予定は?」
「……特に何もねェよ」
「それは好都合だね」







顰め面のままで答えた京子に、八剣は機嫌良く笑った。

何故自分の予定が何もないと、この男に好都合なのか。
理解できずに、京子は目の前の男を睨む。


八剣が一歩近付いて、思わず下がりそうになった京子だったが、プライドがそれを阻む。
身長差のお陰で見上げなければならないのが、少々癪に障った。








「………なんか用かよ」
「さっきも言ったでしょ?」







胡乱げな眼差しを向ける京子に、八剣は一つ微笑んで。
木刀を持つ手とは反対の、学校鞄を持った手首を掴んで、八剣は歩き出す。

唐突な事に京子は目を向いて、蹈鞴を踏んだ。







「おい、何しやがんだ!」
「丁度俺も暇を持て余していた所でね。暇人同士、少し時間潰しに付き合ってくれてもいいだろう?」
「お前となんか絶対御免だ!!」







掴む手を振り解こうとする京子だったが、八剣の手は離れなかった。
手首は決して痛いほど握られている訳ではないのに、何故なのか。
いや、そんな事はどうでもいい、とにかく八剣と一緒に街を歩くなんて御免だった。
苦手なのだ、この男は!

だのに八剣はさっさと歩いて行き、腕を捕まれて引っ張られている所為で、それに従うしかない。
いっそ殴ってやろうかと右手の木刀を強く握ったが、肩越しに八剣の瞳が此方を見遣った。
読まれているのが判って、京子はぎりぎり歯を噛む。






「京ちゃん、デートした事はあるかな?」
「ねェよ! 放せ、このナンパ野郎!」
「じゃあこれが京ちゃんの初デートという事になるね」
「うぜェ! 放せッ! はーなーせーッ!!」






喚く京子の声が駅前に響き、周囲が何事かと視線を向ける。
しかし、恋人同士の痴話喧嘩とでも思ったか、結局人々は何もなかったかのように人の波に流れて行く。

何故こんな時に限って、知り合いに逢わないのだろうかと京子は思った。
龍麻でも醍醐でも、誰でもいいから此処に来てくれたら、現状は少しぐらい変わるだろうに。




振り払おうと手を振ってみても、八剣は平静とした足取りで歩いて行く。
踏ん張っても、容易く引っ張って行かれてしまう自分が無性に悔しかった。










―――――――だからコイツは嫌いなんだ!










叫びにも似た京子の言葉は、誰の耳に届く事もなかった。















































京子が八剣の暇潰し(デートだとは断じて思わない)に付き合うことを決めたのは、拉致に合ってから10分後。


目的地など決める様子もなく、何処に行こうか、なんて何度となく聴いてくる八剣は、その間、決して京子の手を放さなかった。
次第に抵抗する事も面倒になっていた京子は、繰り返される問い掛けに、何処でもいいからせめて手を離せ、と言った。
その頃には逃げるのも無駄だと認識していたのを、八剣も感じ取っていたらしい。
意外にあっさりと腕は解放され、微妙な距離を保って、八剣の暇潰しに付き合う事となった。

頼むから、誰も知り合いには見付かってくれるなと切に願う。




抵抗も逃亡も諦めた京子は、八剣の一歩手前を進んでいた。
後ろをついて歩くのは癪に障るし、隣に並ぶなんて持っての外だった。

八剣もそれを判っているのか知らないが、後ろを歩くまま、並ぼうとはしない。
強引に暇潰しに連れ出した癖に、妙なところで引き際が良い。
彼が何を考えているのか、京子は益々判らなかった。







「さて、京ちゃんは何処に行きたいのかな?」
「京ちゃん言うな。別に何処にも行きたかねェよ」






何処かに行くような目的が最初から決まっているのなら、暇を持て余してなんかいなかった。
振り返らずにそう答えると、八剣がしばし考えるような吐息を漏らす。






「デートらしく喫茶店にでも行くかい?」
「後に晩飯があんのに、こんな時間から飯食う訳ねェだろ」
「ああ、そうだったね。じゃあ、ブティックでも?」
「興味ねェ」






服なんて見に行っても、京子は益々暇を持て余すだけだ。
時折、葵や小蒔、遠野に引っ張られて「可愛い服着なきゃ!」なんて連れて行かれる事はある。
あるが、その都度、京子が着たい服なんてないし、似合う服があるとも思っていない。

京子が普段着ている服は、殆どがメンズか、男女の是非を問わないフリーサイズのものだ。
年頃の女の子のようにおしゃれなんて興味もないし、流行にも敏感でもないし――――――
……連れて行かれても困るだけ、疲れるだけだった。


だと、言っているのに。







「それじゃ、あそこ行ってみようか」
「あ?」






言って八剣が指差した方向を見ると、和柄模様を基調とした和装の店があった。






「阿呆か、テメェ。あんなトコ行って何すんだよ」
「別に買わなくてもいいんだよ。見ているだけでも、楽しいだろうから」
「だから興味ねェっつってんだろ!」
「そう言って敬遠している間は、いつまで経っても興味がないままだよ」
「いらねェ世話だ! 知らなくたって困りゃしねェだろ!」
「いいから、おいで」






京子の意見など始めから気にしていなかったように、八剣は京子の手を引く。
また強引に決められて、京子は思いっきり顔を顰めた。



店の中には入りたくないと言うと、それならウィンドウショッピングにと八剣の切り替えは早かった。
強引に行く事を決めたかと思えば、すんなりと京子の意思を汲んでくる。

つくづく八剣の行動が判らない。

だが、店の中に入らなくていいのなら、それだけでも京子にとっては在り難かった。
どうせもう逃げられないのだから、腹を括って、八剣の暇潰しに付き合う事にする。




ガラスの向こう、鮮やかな色の着物が綺麗に飾られている。
しかし、京子はそれを見ても特に感慨は沸かなかった。







「これは京ちゃんのイメージとは少し違うかな」
「……なんだよ、オレのイメージって……」







八剣の言葉にぼやいて返すと、そうだねェ、と少し考える素振りを見せてから、







「紅がいいかな。京ちゃんは、紅が似合いそうだね。でも紅となると、振袖ぐらいしかないかな」
「…てめェとお揃いなんざ、絶対ェ御免だ」







つんとそっぽを向いて言う京子に、八剣はクスクスと笑う。
やけに機嫌がいい、それが京子にとっては更に不興になるのだが、八剣はそれを気にしなかった。



あれなんかどうかな、と八剣が飾られた着物を指差す。
言われたので仕方なくそちらに目を向けると、鮮やかな紅に桜模様をふんだんにあしらった振袖。
桜模様の輪郭に金糸をあしらったそれを見て、京子は今日何度目か知らず、顔を顰めた。

他の女だったら綺麗だとかはしゃぐのか? と思いつつ、京子は溜め息を吐いた。
葵のように気の利いたことは言えないし、小蒔や遠野のようにはしゃぐのも無理。
せめてもう少し落ち着いた色合いだったりしたら、いい色だな、ぐらいは言えたかも知れない。


返事をしない京子に、それじゃあこっちは? と八剣は別の着物を指差した。
億劫だったがそちらに目を向けると、漆を基調に、袂と裾に紅と紅椿、肩口に白い桜と言う着物。
―――――先に示されたものよりも、まだこっちの方がいいかな、と思った。

自分がこれを着るというのは全く想像がつかないが、眺めている分には悪くない。







「京ちゃんは、どっちが好き?」
「…こっちだな。まだこっちの方がいい」
「似合うよ」
「着ねェよ、莫迦か」
「振袖だしね。成人式にでも」
「それまでお前、オレに付き纏う気か…?」






隣に並んで着物を眺める八剣を見上げ、京子は億劫げに呟く。
八剣はそんな京子を見下ろし、小さく微笑むと、








「京ちゃんが良ければ、ね」







今の時点で良しとしていない。
しかし、きっとそれを言っても八剣は全く意に留めないのだろう。

また一つ溜め息を吐いて、京子は何気なく、分けられたもう一つのウィンドウを見る。




其処に飾られている、男装の単衣が目に付いた。
唐紅の布地に、鳶色の帯、長身の男性用に作られているのが判る。


―――――何故それが目に付いたのか。
考えるよりも先に、脳裏に過ぎったのは、たった一人の男の顔。









「……京ちゃん、どうかしたかい?」








すぐ隣から問い掛ける男を、京子は見なかった。
呼びかける声も、殆ど聞こえていなかったと言って良い。
その時京子の意識は、殆ど現世にはなく、脳裏を掠めた人物を捜し求めていたからだ。


無意識に、右手の木刀を強く握る。
色を失うのではないかと思うほどに強く。




殆ど強引な形で唐紅から視線を外し、京子はくるりと背を向けた。
何も言わずに店から離れる京子を、八剣は咎める様子もなく、追う。







「あまり楽しくなかったかな」
「………」
「仕方がないか。興味がないって言ってたしね」







無理に付き合わせて悪かった―――――と。
謝られた所で、何を今更、というのが京子の本音であった。
しかし謝られてまで悪態を吐く気にはならなかったし、本来なら謝るのは此方の方だ。
気の利いたことの一つも言えなければ、断わりもなく店から離れようとしているのだから。

それでも、八剣は、咎めもしなければ、嫌な顔一つもしない。
今日一日の最初の邂逅から、京子は決して良い態度を取っていないと言うのに。


そうは思っても、こっちこそ悪かった、なんて台詞は京子の口からは出て来なかった。
罵倒の一つもされていないから、余計に謝る事に対して抵抗がある。








(けど、まぁ……あれは、綺麗だったしな)







漆に映える紅と紅椿を思い出し、京子は鼻頭を掻いた。



ちらりと後ろを歩く八剣を見遣ると、此方を見ていた瞳とぶつかる。

八剣は、何処までも落ち着いた眼差しで京子を見ている。
あまり邪険にするのも悪い気がして、京子は少し視線を彷徨わせた後、結局前を向き、







「お前は、何処に行きたいんだよ」
「うん?」







顔を見ながら聞くのは躊躇われた。
目を逸らして、それでもようやくと言うように問い掛けると、背中に振ってきたのは不思議そうな声。







「さっきからお前、オレに聞いてばっかじゃねェか。何処に行きたい、何がしたいって」
「京ちゃんがしたいと思った事をさせてあげたいからね」
「だから、別に何もねェって言ってんだろ。そう言うお前こそどうなんだよ」
「俺も特にはないね。だから、京ちゃんの行きたい所に付き合おうと思ってたんだけど」
「さっきは強引に引っ張って行ったじゃねェか。オレは興味ねェって言ったぞ」
「ごめんね。もうしない」






また謝られて、京子は唇を尖らせた。
別に、謝って欲しくて言ったつもりではないのに。

……なんだか自分ばかりが悪者のようだ。


けれども、待てど待てど、繰り返し問うてみても、八剣の返答は同じ。
京子の行きたい所でいい、とそればかりで、京子もこれには返答に困る。

服なんて興味がないし、コスメ云々も同様。
聞きたかったアーティストの新曲のCDは醍醐から借りたばかりだし、漫画もクラスの男子から借りた。
過ぎる街並みで何かないかと探してみても、京子の興味を擽るものは中々見付からなかった。



後ろをついて歩く八剣は、やはり急かすこともしない。
京子が何事か示すまでは待つつもりなのだろうか。
…それはそれで、京子も当惑した。

さっきみたいに引っ張って行きゃあいいのに―――――と、先ほどとはまるで正反対のことを考える。


進んで話をする相手でもないから、余計に沈黙が気まずい気がした。
これが龍麻であるなら、学校の愚痴だの、どうでもいい話が出来るし、葵達なら京子が喋らなくても何某かで盛り上がっているし、醍醐だって同じで、吾妻橋達でも。

沈黙だって別に嫌いという訳ではないのだけれど、傍らにいるのは、その空気を良しとするにはまだ親しくもない。








(……なんでオレが、こんな奴の事でこんなに考えなきゃならねェんでェ)








闘った時にこの男から負わされた傷は、既に痛みこそないものの、完治したとは言い難い。

驚くほどに綺麗な刀傷は、直に後さえ残らず消えるだろうと岩山に診断された。
……それは、京子が女であるから、女の体だったからという、八剣の情けなのだろうか。


考えれば考えるほど、八剣は芯から京子を“女”として見ているのが判ってしまう。
慣れていないのだ、こういうのは―――――……








「京ちゃん」







呼ばれて、肩が跳ねた。
動悸まで起きた事を感付かれないように、顰め面で振り返る。








「寒くない?」
「別に」
「俺は少し寒いね」
「そうかよ」







確かに、吹き付ける風は冷たく、肌寒さが増して来た。
制服のまま、スカートのままなので、足元の体感温度はかなり低くなっている。

それでも八剣に同意するのは意地が邪魔をして、素っ気無い態度になった。







「何処かに入らない?」
「何処にだよ」
「京ちゃんは何処がいい?」
「……またそれかよ……」







だから、意見を求められても困るだけだと言うのに。


仕方なく立ち止まって辺りを見回して、ネオンが点灯したばかりのゲームセンターが目に付いた。
制服姿の学生達が屯して、店先UFOキャッチャーで盛り上がっている。







「だったら、其処行くぞ」
「京ちゃん、遊ぶのかい?」
「テメェが寒いって煩ェからだろ。遊ぶような金なんかねェよ」







ゲームセンターに向かう京子の懐は、正直言って少々寒いものがある。
日々の夕飯代は残っているが、無駄遣いすればあっという間に空っぽだ。
あまり金銭に融通の利くような生活は送っていない。

ゲームの誘惑はあるが、一度でも手を出さなければ無碍に金を消費する事もないだろう。
眺めているだけでも、十分暇潰しにはなる筈だ。


取れる取れないで騒ぐ学生たちの横を通り過ぎて、ゲームセンターの中に入る。
出入りの激しい一階は、あまり暖房が効いていなかったが、風が来ない分だけマシだ。



さて、何をしようか、と辺りを見回しながら奥へと足を進める。










ガヤガヤと煩い店の中。


後ろをついて歩く男の呟きは、聞こえなかった。















―――――――――……本当、デートみたいだね。